食べ物 聖別 境界線  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創世記2:16 主なる神はその人に命じて言われた、

「あなたは園のどの木からでも心のままに取って

食べてよろしい。

2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。

それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 

神が人へ最初の教え、忠告をしたのは、食べる事に関してです。聖書に初めて書かれている箇所です。

神が人に教えた教えの一番最初が”食べ物”のこと、

食べ方の事に関してなのです。

 

正確に言えば、最初に書かれている聖別は”時”に関してです。

神の定めた時=第七日目を聖別して生きる事が記されています

 

創世記2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。

2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、

そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

 2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。

神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

 

神と全創造物とが初めて一緒に迎えて祝った日が第七日目の

シャバットであり、その日は神が聖別されている事実が聖書には記述がされています。

トラー=モーセの五書は異邦人には意味がない教えと言う

人間の教えを信じると神の言葉の真実を見失う事になります。

神に造られた全世界、全創造物は神のシャバットを祝う。

 

ここで、”木”と読んで動物は食さないと考えるのは早合点です。

最初の数行に聖書にこれから書かれる全てが書かれて

いないだけです。後から全ての解説が来るのです。

木と聞いて、ユダヤ人なら”命の木”=神ご自身そして、

神の教えであると繋げて考えられるのです。

 

命の木をしっかり持って離すな!

 

箴言3:18 知恵は、これを捕える者には命の木である、

これをしっかり捕える人はさいわいである。

 

”木”と言う言葉で、救い主=神=言葉と繋げるのです。

ここを読んでも、”命の木”=トラー=トラーの巻物を

ユダヤ人は考えるのです。神=霊=言葉一体の性質だからです。

 

聖書には突然前置きや解説なく書かれているものがあります。

アベルとカインの捧げ物もそうです。

エデンの園を出てすぐどうして突然捧げ物をする下りが

書かれているのか。

動物を捧げるとは、同時に食する事でもあるのです。

神の祭壇に捧げられる動物は”きよい”動物のみです。

 

最初から神は人のために、人が食するのにふさわしい動物と

人が食するに適さない別の目的を持つ動物を造られたのです。

創造完了後の付け足しは何も無いからです。

そして、神は人がずれた後に動物を創造したと書いてないです。最初から全て100%神の意図通りを造り止まった、

だからシャバット=第七日目の記念日も永遠に変わらないのです。この箇所は、神の言われた通りの中、囲いの中、神の言われた事以外と言われた事の区別〜境界線が敷かれています。

 

それは”割礼”=境界線を敷いた印としても表されており、

一番最初に聖別が教えられているのは、神の造られた

神オリジナルの記念日に関して、シャバットと言う”時”を

聖別する事で聖別の意味をあらわして教えています。

そして次に教えられているのは食べる事。

全てこれらは”聖別”を表しています。

 

神の子らには印があり、それは神のものではないものとの

区別=聖別=境界線がクリアーに敷かれている事実が

書かれています。

食べ物も神の上に神の目的通りに分かたれて生きる=聖別を教えるものの一つであり、日々のリマインダー神が創造された日々の学習ツール、それはイスラエルの神の子らの生きて

表す印なのです。

神の子ら=神の似姿に造られた人間はこれこれを食し、

これこれを食さない様に造られている事実が

はっきり最初から教えられているのです。

命の木からだけ食べる。善悪の知識の木からは食べない。

 

神の日々のリマインダー、学習ツールは何だと書かれていますか?

食べ物、割礼、衣の房、戸口に付けるメズサ、腕、

額に付ける神の言葉のリマインダーなどです。

週一度のリマインダー、”シャバット”

 

月のリマインダー 

新月、女性の月経

 

一年をめぐるリマインダー

春と秋の神の記念日、祭り。

これらがイスラエルの神に属する家族、

子らの印として神が与えているものです。

 

2:16 主なる神はその人に命じて言われた、

「あなたは園のどの木からでも心のままに取って

食べてよろしい。

2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。

それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 

あほくさい、ばかばかしい神の古い教えと考えますか?

人間的にはこれくらい食べたところでそれが何さ!?と

思いませんか?正直言って。それくらい多めに見てよ的な感覚に陥ります。木の実ちょっと食べたくらいでどうして

死ぬのでしょう?そして食べてもすぐには死ななかったのです。

 

神の言葉は滅びるものにはおろかでも、しかし救いを受けるものには神の力とある通り<1コリント1:18

人の理解をはるかに超えているのが神の知恵の真理なのです。

 

自分の考えや都合により神に言われている教えを受け入れたく

ない、認めたくない、聞きたくない、否定するなら神が

教えている永遠の真理、事実は全く見えなくなってしまいます。

特に聖別に関しては道徳的な事、誰でも理解出来る事ではない

神の言葉の真意を知る場合にだけ理解出来る内容なのです。

ある部分は見えてもそれ以上深く永遠に続く真実、真理が途中で見えない行き止まり状態に留まるからです。

言われている事と違う事を考えれば見えなくなるのは当然です。

 

相手の話を聞かない人と同じになります。

相手の話を聞かない、だから相手の言う事を理解しない、

神の言葉を聞かない理解しなければ、相手が何を教えているのか

さえ見えないままになる。

 

この記事に書いているのは聖書に何が書いてあるのか?の探求であり私個人の意見や思想、感想、人にあれこれせよなどと言う

命令を書いているものではありません。

 

そして聖書に書かれている神の永遠の言葉、教えに対して

それぞれ個人が神の前にどう受け取り、そして実際に神に言われた教えを生きるのか、それはその人個人個人の100%自由選択であり誰かが誰かに何かを強要したりするものでもないのです。

 

ただ堪え難い事は、クリスチャンの世界で、聖書の真実だけに

基づき、神の教えを書いてある通りには受け取らず、

神の永遠の言葉に手を付けて、伝統の教え=西洋人が造った聖書では無い教えを聖書だと信じて主張し、人間が神の言葉を否定したり却下したり、価値評価をする人間の教えを平気でし続けている事に何も疑問にも思わない風潮なのです。

 

神の言葉を否定してもなんとも感じない無感覚状態、

私自身もそれをずっとして来てしまったのです。

神の言葉が何かが分からなかったからです。神の教えが永遠不変と書いてある事実通りであるのに、神の伝える神の言葉の実態

真実に対して人の教えに遮られて完全盲目であったからです。

そして今は恵みの時代だから神の古い教えを生きるのは悪い事、律法主義と教えられて来ました。

 

それは聖書に書いてある神の言葉の事実を理解しないまま

曲解されている人造神学を通して語られる翻訳聖書の世界の

教えのせいなのです。恵みの時代とはいつの時代も神の恵みの時代です。それは神の救いを受けた人は神の恵みの中に生きる事を

その時から意識的に気がついて生きる世界に移行したのです。

それまで神を知らないまま生きていたから、与えられている

神の恵み助けに気がつかなかったと言う事。

そして新しい命を受けた人は、神の子らしく神の教え=性質を

生きる、それが恵みの中を生きる事なのです。

2000年以降イエシュアが処刑され復活されて初めて恵みの時代が始まったわけではない。

最初から神は恵み、哀れみに飛んだ神と神ご自身の永遠普遍の性質を紹介しています。モーセの五書=父の教えを捨てるから何を言われているのか見えなくなってしまうのです。

 

 

続く