14:6 日を重んじる者は、主のために重んじる。
また食べる者も主のために食べる。
神に感謝して食べるからである。
食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。
<シンプルな事実です。それぞれが大事とすることを、
主のために生きているから、主に感謝して生きている。
その時に何でも食べて良い。神の記念日を変更して自分の意見や考えで別の日にやれば良いなどと聖書のどこにも1度たりとも
書いてないその事実にはっきり気が付き、目覚めればパウロが
ローマ人の間で起きている日常のこの様な問題に対して、
トラーからの賢い知恵を持って諭している事が分かります。>
大事なのは、人が大事としている事、聖書に反していないこと
なら第三者がとやかく議論する無意味な争いはしてはならないと言う事を言っているのです。
14:13 それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことを
やめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、
つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。
次のパウロの言葉もとんでもなく誤解する箇所だと思います。
パウロの教えは100%トラー=モーセの五書=神の教えの中という囲いの境界線内=神の許されている生き方の範囲内での
全てを話している事実に立って読んでみてください。
そして使徒15章にあった新しく信じたばかりの異邦人信者が
ユダヤ人信者=パリサイ派の中に加わる時に最低限のルール=
汚れた動物を食する事をしない事を守る!それはレビ記11章に禁じられている汚れた動物であり、異教の神殿で神の教える方法ではない動物を苦しめるやり方で絞め殺したものです。
その事実を念頭に置いて以下を読むのです。
14:14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。
それ自体、汚れているものは一つもない。
ただ、それが汚れていると考える人にだけ、
汚れているのである。
<この箇所も食物規定は人が考える通りに変化すると書いてあるのではないのです。
レビ記11章にある汚れた動物は永遠に汚れた動物なのです。
ある人は、しかるべきルートを通して購入した肉でなければ
汚れていると考える。そう言う思考回路です。
手洗いの儀式と同じです。汚れた手、外で何に触ったのか
分からない、汚れたものに触れたらその手は汚れているから、
手洗いの儀式をしなければ食べ物に触れてはならないと言う
ラビが作った教えです。
マルコ7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、
腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。
(イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。)
この箇所も同じです。最後の文は訳者が自分の思想にのっとり
勝手に挿入されている文であり、原典にはない文です。
もしどんな食べ物全ての食べ物と言うならそれは聖書では
神の定めたレビ記11章の動物の中での全て!なのです。
聖書にある神の永遠の言葉、教えに対しての事実だけに立って
西洋人の様に勝手に神の言葉を否定、仕分け、価値判定、削除
付け足しし、人種別に別の教えがあると言う教えを作り、
神の言葉に対して賞味期限を決める様な行為は神の前に禁じられている事実だけに立たない限り、何が神の語る永遠の真実なのか目の前に書いてあってもその事実が読み取れないままになるのです。
トラーを知らない異邦人は2000年近くこの”deception"
人の作った騙しごとの虚しい哲学神学の教えのドツボに
はまったままになっているのです。
異邦人には、トラーの教えが初めから無いので、なんでも食べて
良いことになったと早合点して聖書に書かれている事実、
トラー=モーセの五書=父の教え=婚姻契約の生き方は永遠と
言う事実も、西洋人の作った神の言葉を否定する教えにより
真実が根付かない、神の言葉を書いてある通りに受け取らない事をずっとやり続けているので、本当の悔い改め=軌道修正が
必要なのです。
14:15 もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、
あなたは、もはや愛=<契約の愛の詳細の中>によって歩いて
いるのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしては
ならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。
パウロが語っているのは何かを食べることが大事だとか
大事では無いとか、レビ記11章の食物規定が今は神が変更今は無効になったなどと言う事など一切一度も話していないのです。
以前ある方に食事に招待されレストランでメニューを見ていた時その方は”チキン”は匂いさえも耐えられないのでやめてねと
言うので、もちろん皆さんチキン以外のものを頼みました。
誰かに対する=弱い人〜に対する気遣いは必要であると言う事
チキンを食べる事は神の前に罪では無いけれど、
誰かが不愉快になるドン引きするならそれはその場ではしないと言う配慮が大切と言うのと同じ事をパウロが話しているのです。
神の教え=トラーに書かれた教えを違反している事をしている
わけでは無いのに、取るに足りない内容に対して批判し、
人の生き方や考え方を自分の考えで、議論して裁いて不必要に
誰かを傷つけてはならないと言うのがパウロの一貫したここでのメッセージなのです。
誰かに対しての心遣いや配慮が必要である事、”愛”コミュニテイの隣人に対する神の定義する契約の愛の生き方、マナーを
貫こうと言う事なのです。
14:16 それだから、あなたがたにとって良い事が、
そしりの種にならぬようにしなさい。
<正しい事でも言い方ややり方が間違えば人には迷惑、
鬱陶しい、うるさい助言の何物でもないものになります。>
14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。
14:18 こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、
かつ、人にも受けいれられるのである。
何が大事なのかとパウロは論点の結論中心を述べています。
14:19 こういうわけで、平和に役立つことや、
互の徳を高めることを、追い求めようではないか。
14:20 食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。
すべての物はきよい。
ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。
<全ての物はきよい=神がきよいとされたものの中の全部。
レビ記11章に書かれている神が人間の食べ物として作られた
食べ物の中での全て!です。それ以外は汚れた食するのに
フィットしない、人間の食べ物ではないものです。
それは野菜であれ動物であれ、神がきよいとされた食べ物の
中での全て!を話しているその事実からずれないで、
なんでもかんでもきよい食べて良いなんて聖書には書いてない
ことに気が付いて注意して読まなければならない箇所です。
ユダヤ人イエシュア信者はこの点では疑いなく
レビ記11章を理解しているのです。
生まれつき、育ちでトラーに馴染んでいるからです。
14:21 肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。
<1世紀当時の人は肉など滅多に食さないものでした。
金持ち以外は。肉を食わずとだけ書いてあった時に色々な事が
考えられます。
例えば、偶像に捧げた肉など、異邦人の店から買ったきよい動物
でもそれは汚れていると考えている人。
酒を飲むことは罪ではないけれど、ある人に取って酒に対して
異様な拒絶反応をするならその人の前であえて飲まない方が良いと言うことだと思います。
大酒飲みは、体と精神を破綻させるのでずれていますが。>
14:22 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、
自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、
やましいと思わない人は、さいわいである。
<良いと定めたこと=これは神が良いとする範囲の中で自分が
こう生きたら良いと考えることです。神が禁じることで自分が
良いと定めた事などとパウロは言う訳ないです。
自分勝手な自由な生き方をして良いと考えるならそれは
聖書とは違う事なのです。
神の教えの中の安全な囲いの中での全ては許されているのです。
でもその時々で何をしなくてはならないのか、
それは自分で考えて判断すると言う事です。
して良い事でも、ある時にはよくないと言う事になる場合が
ありますよね。大声で隣人を朝早く祝福する。
こんなことしたら誤解されると書いてあります。
悲しんでいる人の前で歌を歌ってはならないなど。
常識で考えて自分の行動が時に叶った事をしているのか
吟味する。
ヨブの友人の助言も同じです。正しいことを話していても
話す相手の状況、時を全く考えず、時に叶わない不
適切な助言をしている事も同じです。
14:23 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、
罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。
続く