ローマ15章 神の家族は1つ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロが神のトラー=教え、インストラクション=モーセの五書

父の教え=婚姻契約のどの箇所でも否定し、トラーを終わらせ

否定した新しい別の教え別の福音を語っていると言う西洋人が

造った神の前に人類最大の嘘を信じ続けるのをやめるなら、

神の語る真実、神の言葉、教えの本当の意味、聖書の事実が

初めて見えて来ます。

 

デイスペンセーション神学を編み出した人はトラーを本当に知らない西洋人であり、そして人間至上主義哲学思想の影響を多大に受けています。聖書のヘブライ思想とはまるで違う西洋哲学思想

そのものです。

 

18−19世紀には多くの異端的教えが編み出されました。

神の言葉をどの部分でも否定し、生きる事を禁じたり

削除、付け足し、人種により違う教えなどと言う神の言葉を

ないがしろにする教えは、聖書によれば死に匹敵する罪、

偽預言、偽教師が語る神の権威に真っ向から挑戦、

牽制する相当やばいまやかしの虚しい騙しごとの哲学、

教えなのです。偏った教え、終末論信奉者。

 

自分の見た夢や幻<聖書とは全く関係ない>なのに、

神から啓示を受けたのだと主張したエレンホワイトや

ジョセフ スミス<モルモン教典を書いた>など。

自分は神と宣言する人もいますが、その場合どんな意識、

思考回路なのかと思います。

 

エレンホワイトは顔面打撲の致命的怪我の後何週間も昏睡状態の後奇跡的に目覚めたそうです。

その後から不思議な幻を見る様になったと言います。

2000以上の神から啓示された夢を土台に教えを作ったと

伝えられています。幻想幻覚は脳の怪我の後遺症だと思いますが。彼女はそのグループの中では預言者と称えられています。

でも彼女は聖書に登場する預言者ではないのです。

神から”油注ぎをされる人”=王でも預言者でも、

神の立てた預言者から直接油を注ぎを全身に受ける儀式を通して、神から立てられ人達、預言者なのです。

その預言者達は全て聖書にはっきり記されています。

預言者の言葉は預言書として残され、預言者が預言書を

書いているのです。それが聖書となったのです。

聖書が閉じられた後に聖書に登場する様な預言者の役割を

する人はいないはずです。

なぜならもしいるとしたら、聖書が書き換えられてしまうと

言うことだからです。

 

パウロの語る”預言をする””預言の賜物”とは、トラー=神の言葉を明確に正しく神の意図通りに語り、解き明かす事の出来る人のことを話しているのです。

預言=神の言葉=トラーを預かり、神の意図通りを解説し

伝えることだからです。未来予言をする事や自分の思想など

語るのは聖書の言う預言者とは異なるのです。

 

ウイリアム ミラーをエレンホワイトが信奉して、ミラーの

終末論の教えをピックアップしその上に自分の教えを作りました。

ミラーは再臨がいついつ来ると何度も何度も偽予言し

遂にはそれに耐えらず失脚したのです。

再臨がなかった理由をあれこれこじつけて説明していますが、

それって最初から自分の思い込みの偽予言でしたと認めないと

ならないものなのです。

”神から伝えられてもいないことをあたかも神が語ったと人に

伝えて言う、でもその未来予言は神からのものではないので実現しなかったと言う事です。

聖書ではその様な偽預言は死に値する罪と書かれています。

神から啓示されたと軽々しく再臨の日時やその他を話すのを

何度も聞いたことがありますが、それって聖書に基づき嘘!ですよね。その日は神以外誰も知らない!とイエシュアも話しているからです。

 

その様な教えを作った後誰かがそのアイデイアを取り出して

自分の思想神学を編み出して行く連鎖がずっと起きているのです。だから1世紀後半から大量に聖書とは異なる混ぜ物の教えを神の言葉の中に盛り込まれ続け、それが聖書の教えと誤解されているものがたくさんあるのです。聖書に書かれていない教え、

神の言葉を否定し曲げること、神の教えや、神の記念日や

その他様々な教えを別物に変形して来たのです。

 

聖書の教えとは違う何の霊に夢や幻を見せられたのか

分からない、幻か夢により教えを編み出す事自体が危険です。

神から直接神が話した言葉=聖書がちゃんと与えられて

いるのです。人の幻覚や幻想、夢を土台にした教えは不必要。

神から遣わされた預言者の預言は全て預言書として

神からの託宣の言葉は全て預言書に記述されて私達はそれを

今読む事、知る事が出来るのです。

 

様々な危険な教えを異邦人の世界は編み出して来たのです。

ユダヤ人の中にも同じ過ちをした歴史があり、現在でも

聖書とは関係の無い教えを教えている人達もいるのです。

ユダヤ人が混ぜ物の教え、礼拝へ走ったズレ=罪が歴史書、

そして預言書の中に全人類への警告として記されているのです。

 

ここでクリアーに分かる事、聖書全体でもクリアーに分かる事

神は人種別に別の異なる教えや別の契約など用意していない事実が聖書には書かれているのです。

人の編み出した非聖書的教えこそ神の教え、神の言葉を知る事

生きる事を妨害する大きなつまずきの岩なのです。

 

ダービーは聖書は学ぶ必要はない、異邦人は神の言葉を生きる

必要がない、山上の垂訓なども異邦人はもう生きる必要がないと、イエシュアが語られたトラーの解説を否定しましたが、

神の言葉を人間が否定する事は、神に対する冒涜だと神に言われているのにどう言う意識でそんな事を言ったのかと思います。

 

聖書はどの部分も誤りのない完全なる神の言葉と神が紹介する

通りを信じていない神学校の教師がアメリカでもたくさんいますが、ダービーの様な神の言葉を否定する教えが浸透すれば

そう言う考えを編み出す人が後をたたないのは当然なのです。

 

神学校の講壇から教えられる非聖書的教えのせいでどれほど多くの人たちを神の言葉に根付き、神の造られた人の麗しい生き方

神の教えから学び生きる事、それが直接神を体験することに

繋がるのに、そして神との特別な出会いをする記念日を生きる事を阻止し、本物の自己像を見出す事を妨げ、神の性質を生きる事から多くの人々を妨害して来たのでしょう。

 

異邦人の中にも聖書に沿った神の意図通りを知る人学ぶ人も

神が大勢保存されている事実があります。それが希望なのです。

 

救われた人はその後、神に造られた自分の人としての生き方を

神の言葉、教えに軌道修正して、神の意図通り命溢れて生きる事を神の教えから教えられ、探求して生きる事ではなく、宗教活動に専念する事、布教活動こそが神への愛、生き方だと強調されてしまったのです。とても偏った教え、指導です。

人が神の似姿で神の教えに根付き日々自分の置かれた場所で

生きる事こそ本当に周りの人に真実が伝わるものなのです。

生ける水を内側=器にたたえて、歩く場所に生ける水=

イエシュアを運ぶ人=土の器と書いてあるのです。

 

神の教えは100%全て神の与えた命=神の似姿である実態を

フルに生きる事!それが聖書の中心の教えなのです。

神の言葉を生きる。神に造られた神の似姿に造られた人は

神の言葉を生きると聖書には最初から最後まで書いてあります。

 

ヤコブ 2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、

それだけでは死んだものである。

2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって

信仰を見せてあげよう。

 

<人は何を信じて何を実際に日々生きているのか、

実際にその信じている内容を生きないなら死んでいる

ある通りです。

神の言葉を生きるのは恵みの生き方を捨てた律法主義?

それって一体誰の教えでしょう?イスラエルの神は、

イスラエルの神を信じた人は一体何を生きると教えていますか?

日々実際に人は何を生きていると考えていますか?

その根拠、基準は何でしょう?

聖書を生きると言うなら、聖書はどこの箇所も100%トラー=

モーセの五書が書かれている事実を知っていますか?>

 

続く