神の創造されたオリジナルの記念日は永遠不変 イエシュアが祝っていた記念日はレビ記23章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に書かれているテーマ、内容は、神に造られた人間が

オリジナルの状態=神の性質を生きて、共同体をシャロームに

ガードして生きる、エデンの状態に戻ることです。

エデンから出て、エデンに戻る。

創世記〜黙示録にはそれが書かれています。

 

神に造られた人間は、神の性質通りに似せられ造られたと

神が言われました。

そして善悪とは、神の意図通りかそうではないか。

それは人間が自由意志で選択するものであり、神のものでは

無いものを選ぶ傾向は神の性質に反している事=悪と

書かれています。

人類は最初からそれをしてしまった事が書かれています。

悪とは道徳的な事だけでなく、神の意図=教えと違うこと全てを

選択して生きる事に関してなのです。

道徳的なことは普通の人にも分かる。

それ以外は全く分からない領域です。

神の言葉、教えを捨てたら見えない世界。

クリスチャンの世界でもトラーを捨てたら”悪”の詳細は不明。

 

神の言葉、教えと、宗教の教えは決定的に違う事があります。

本質、性質、実態が全く違う事です。

神は100%全て人のためにこの世界を造られました。

神のために自分を犠牲にしなければとか、神に喜ばれるために

頑張るなどと言う意識こそが偶像礼拝、律法主義と聖書には

書かれています。

 

自分の努力、行いで神の前に自分の義を獲得する意識です。

疲れる意識、エデンの園で神の性質通りぴったりに心地良く

生きるのとは似てる様で本質が違う意識です。

 

そして神の教える教えではなく自分の編み出した考えや教えで

日々を生きる事、神が伝えている方法ではない違う事で

神に近づこうとする事です。

これは偶像礼拝の本質とも繋がっています。

神の前にあれこれして、認められ恵、祝福を見返りとしてもらう

意識、動機。関係の世界=契約の命を神の中で生きる本質とは

違う、ギブアンドテークのビジネスライクな意識です。

表向きには同一行動に見えても、内側の意識が神の意図とは

ずれた状態=律法主義、偶像礼拝です。

 

そして、神は人を一体として造られました。

神の性質が一体=エハッドだからです。

だから人種により2つ別のグループ=家族があり、人種により

別の神の教えがある=別の契約があると言う教えは、

聖書の教えでは無い人の考え出した思想、神学です。

 

そして1体として繋がっているので一人の人から罪が入り全人類に及んでしまった事実があります。

一人がずれると周りに影響を必ず与えることは日常誰でも経験

している事です。

 

神は代表として1つの人=国民、1つの国を地上と天と

直結する場所、そして時を聖別されたのです。

目に見えない現実と目に見える現実がぴったりマッチするもの。

神は時=神のオリジナル記念日と場所=国、そして神の教えを

生きる人を聖別したのです。

 

そして誰でもイスラエルの神=創造主を愛し生きる人は

同じイスラエルの神の家族と神は人に教えています。

愛するとは”神の婚姻契約=トラー=モーセの五書に書かれた

詳細の愛”神の語る愛とは”Covenated life"契約の命を

生きるコミュニテイの生き方の実態=それを愛=アハヴァと

聖書では説明しているのです。

 

だから誰でもイエシュアに繋がる人は気が付かなくても

神の創造したオリジナルの人間の生き方=トラーの生き方

エデンでオリジナルに造られた人間が生きる詳細を生きる。

神の性質を生きるなら、エデンを人々が再現しシャロームに

ガードされるのです。

契約=トラーを捨てた別の生き方は神の語る”愛”の生き方では

ないのです。人の編み出した宗教と言う独自の生き方、

別の姿に膨れ上がる。

 

そして神の造られた都エルサレムは地上と天を繋ぐポイント

なのです。

聖別される時と場所、神は最初に時を聖別しました。

聖別とは神の目的通り、意図通りに神の上に分かたれていると

言う意味が聖別のヘブライ語神の教える聖別の意味です。

それを人が侵害、妨害、侵してはならないのです。

 

シャバットは神が創造物が全部造られて初めて祝われた日であり

神が聖書に聖別した時、神が止まられた記念日であり

神が人と関係の状態に入った印としての記念日である事

永遠に祝われる日である事が書かれています。

これをガードして生きることはすなわち直に私達の命、

生き方、性質、神と人との関係をガードするものである事が

書かれています。

 

神が何度も何度もシャバットを強調して教えている理由は命に

直結する人間の本質的な生き方であるからです。

 

シャバットを侵害する破る事は死に匹敵すると書かれています。それほどの重さなのです。

知識の木から食べてはならないと言われたそれと同じです。

これこれを食べてこれこれを食べない。

これを神の意図通りに理解出来ない場合は、

意味不明過ぎるほどシンプル!どうでも良いと思う事でしょう。

 

でも人には愚かに聞こえる神の教えは、神の救いを受けた人には神の言葉を生きることは力!と書いてある通り、神の言う通りを生きる人には全てが神の命の源と直結して生きる力、

糧であると書いてあります。

 

人は神の口から出た一つ一つの言葉=トラーを生きる!と

書いてあるのです。イエシュアもサタンにその言葉で対抗し

サタンの嘘の誘いを退けました。

イエシュアは地上で100%トラーを語り教えて生きました。

イエシュアが現れた理由は、100%フルにトラーを生きる

その事実を人が見る必要があったからです。

誰も100%イエシュアの様に神の語る本質通りを生きた事が

ないからです。

永遠から現れ出た神である、神のトラーが肉体となって来られた

イエシュアが祝われた週一度の記念日はシャバットなのです。

 

ローマ帝国がローマ皇帝が歴史の途中で神のオリジナルの記念日やトラーの教えを変えても、神の記念日、神の教えは永遠に同じ

なのです。

 

異邦人の世界で伝統に教えられる教えや、祝われる記念日、

聖書のオリジナルを変えたものは、神の仰せではないのです。

人が作ったもの。

普通の日のどの日を大事にするのは自分の自由なのです。

誕生日や結婚記念日、国の祝い日や宗教の記念日、

それは個人が個人の考えで祝うものです。

 

でも神の創造されたオリジナルの記念日は、神に呼び出された

人々全員集合!神の言葉を愛して契約の命の中に生きることを

選ぶ人は神の呼び出した記念日を祝うとあります。

 

それが神のデザインなのです。神の子らは人種により別の日別の記念日を祝うと聖書のどこに書いてありますか?

それは聖書の教えではなく人の教えなのです。

伝統に密着し、長い年月行われてきたから気が付かない。

しかも神のトラーは終わり!と言う西洋人の教えを信じていれば

神の語る真実など見えくなってしまっているからです。

 

それは私達人の命をガードするもの。

そして神の子らは地の塩、世の光として選ばれたユダヤ人と同様

神のオリジナルの記念日を生きて世界へ神の実態、

イエシュアの福音の事実を宣言すると書いてあります。

 

Shabbat Shalom

 

続く