ローマ14章の箇所で一般に解説されている内容は、実はパウロが話している意図では無いものである箇所がこれです。
パウロは神の言葉を否定して自分の意見を述べているのでは
なくて、この群れの中で起きてる様々な問題に対して、
トラーに基づきどの様に対処するのが良いのかを
話しているのです。
ローマ14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。
ただ、意見を批評するためであってはならない。
<ここで、パウロの大前提は、人の考えが大事なので、
神の教えや言葉を否定して良いなどと言う事を絶対に
語っていない事なのです。
信仰の弱い者と書いてありますが、信仰のとは文章に無い
言葉が付け足されています。
ギリシャ語の当時の他の文献で使われるその言葉
”ἀσθενήματα”体が弱い、特別な必要がある、
特別な事情があるなどの弱さとして表されている言葉です。
その前提で次を読みます。>
14:2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。
<パウロの生徒、群れの信者達、1世紀の聖書に登場する
ユダヤ人でも異邦人でも全て100%トラーに基づき全てを
パウロは信じ、生きて教え、語っているのです。
この箇所で”何を食べてもの何でもとはレビ記11章に書かれて
いる神が造られた人間の食物の中だけの何でも!!!です。
その境界線内の中の食べ物=何でもと書いてあるのです。
パウロや1世紀の信者たちの中で現代の様に西洋人が言った
トラーは終わりレビ記11章の神の造られた食物の教えは終わりと考える人など誰一人いない!!!その事実からだけ聖書を
読まないと神の語る真実など永遠に見えないのです。
命の木から知識の木から両方から食べて良いなどと神は神の
教えを変更などしていないからです。
食べ物に関してレビ記11章が変更になったと誤解する箇所を
別枠で後から書いてみます。
14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、
食べない者も食べる者をさばいてはならない。
神は彼を受けいれて下さったのであるから。
<まずこの箇所で書かれている意味は、ある人には特別な体を
ケアする必要があるから、野菜しか食べないと言うその事に
対してさばく必要などないと書いてあるのです。
例えば体質や病気から、ある人は尿酸値が高くなる食べ物は
食べません。デトックスする必要があるから今野菜しか
食べません。友人でもビーフと白米を食べると腸閉塞になるので
食べれませんと言う人がいます。
そう言う人に向かってなんでそれしか食べないの?
何でも感謝して食べなさいなどと言う批判する必要など
ありませんとパウロが言っているのです。
それぞれの体を気遣い、大事だと思う事をしているのに
理解しない人が横から口出して議論したり不愉快な思いを
させてはなりません。相手を尊重しましょうと言う事です。
この箇所で書かれているのは、聖書ではベジタリアンが
聖書的食べ物であるなどと言う事など神は教えてはいません。
神は創造の中で人間が食べるに相応しい動物を創造されている
からです。途中で変更など無い。進化変化も無い。
そして、動物ではレビ記11章に書かれた動物は人間の食べ物と
して造られたきよい動物であり、食べてはならない動物、
人間の食べ物として造られていない、食するのにも神の祭壇にも
捧げられない汚れた動物のリストがちゃんと神の口から直接
人類へ教えられているのです。シンプルかつクリアーな
神が伝える神の創造された事実と人の生きる上での教えです。
この動物を調べて行くと、性質上とても深い内容を教えて
います。きよい動物の性質と、きよく無い動物の性質を通して
神は様々なことを人に教えています。
そして、人の体にも物理的に害がある動物が食するのに
相応しくない汚れた動物なのです。
人の教えの色眼鏡を通してトラー=モーセの五書は今は無効、
律法主義的な生き方の教えであると考えるなら、
それは神の言葉、教えを自分の都合で、受け入れられる箇所は
受け入れ、都合が悪い箇所は却下すると言う勝手な信仰に
なってしまいます。
神が人間を創造され、神が人間にふさわしい食べ物を創造され
神が人間が食するのに相応しく無い動物を創造されたのです。
それを神が人に伝えている理由は、相応しく無い動物を食べると
肉体的にも不具合があるからです。それはすぐには死なないけど害毒であるから単純な理由です。
口には甘く腹には苦いと書いてある通りです。
そして食べると言うことを通して”聖別”を教えているのです。
日々常に考える=食べるを通して聖別を教えているのです。
神が最初の最初に人に教えられたことは”食べる”事に
関してですね。食べる=識別する事です。自分の中に取り入れるものを吟味する。自分の肉体に、自分の頭脳に何を取り込んで
良いものか吟味しているのか?咀嚼している間に神のものに
属さないなら口から、頭脳から吐き出し追い出す。
神の言われた通りかそうでは無い事か、食べることを通して
識別させている事実に目を留めて考えるなら
どんどん奥深く見えて来ます。
食べる=命を繋ぐ基本でもあるのです。
体もそうです。何を食べるのか?日々考える。
そして霊的な面=目に見えない面も同じです。
神の言葉を食べて生きているのか?神の言葉では無い
自分を損ねる食べ物、教えを食べて生きているのか?
蛇の嘘を食べて生きているのか?
これは自分の中に取り入れる思索に対しても同じです。
神の言葉とは違うことを聞いたアダムとエバの大失敗でも
理解出来る内容です。
神が言われた事では無いのに、神は本当はそう言う意味では
言ってはいないかもと蛇のささやきに惑わされて、
神はそうは言ってないかもと考えて神がだめ!と
教えていることを破り、行動したのでしょう。
食べてはダメとクリアーに神に言われた”善悪の知識の木”から
食べた結果、すぐには死なない、でも死が確実に入り込んだ。
隔ての壁、今までに無い状態に陥った。エデン=喜び=神の中に
安息して存在する状態から飛び出て隔たりの場所に入った。
裸であることに気がつき、違う目で互いを見、批判、責任なすりつけあい、恥を知り、そして仲違い、関係に亀裂が入った。
裸であることで神を恐れたと書いてある、神との間に今までに
無い隔たりが出来てしまった。
たかが”木の実”を食べただけ。されど木の実。
たかが食べ物!でも神の警告は永遠なのです。
神がダメ!と言われるものを取り入れ日々やり続けても
全く気がつく事が出来ず、無頓着になってしまったのです。
トラー=神の教えを捨てれば迷い出ると書いてある通り。
神の言葉は終わったと聖書に書いても無い教えを、
”神がそう言った”と信じているのも全く同じ事なのです。
誰の教えに聞き入っているのか?の警告を食べる!と言う事を
通して教えているのです。人の嘘を食べて生きる。
神の言葉を否定する教え=人の作った作り物の騙し事の哲学。
神殿の神の祭壇に捧げられる動物は”きよい”動物だけです。
クリスチャンも自分は”神の宮”と呼ぶでしょう。
神の宮である人は、神の語る汚れを肉体にも頭脳にも取り込む
事は出来ないと神が言われている言葉は永遠の事実なのです。
これは聖書に書いてある事実なのです。
神がそう言われたから永遠の真実であり私達の命を守るための”教え”なのです。
神の教えを素直に受け取れず、神の教えを厳しい縛りの呪いの
廃れた古い律法と考えるのは、神の中から飛び出た意識状態に
ある証拠なのです。子供が親の忠告をうるさい小言程度にしか
理解出来ない状態と同じ。
神の宮は神が語られる聖別=神の宮の聖別された状態が何かが
細かくトラーには書かれているのです。
神の神殿が汚されたのは、汚れた動物を異教徒が神の祭壇に
捧げた事、汚れた動物を食する様にユダヤ人が強要された事
または自らやっていた事でも気がつくと思います。
イザヤ65:4
夜は夜で、墓地や洞窟へ出かけて悪霊を拝み、
豚や、その他の禁じられているものを食べる。
イザヤ66:
1主はこう言われる、「天はわが位、地はわが足台である。
あなたがたはわたしのためにどんな家を建てようとするのか。
またどんな所がわが休み所となるのか」。
2 主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。
これらの物はことごとくわたしのものである。
しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、
へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。
3 牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者は、
また犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、また豚の血を
ささげる者、乳香を記念としてささげる者は、
また偶像をほめる者である。
これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを楽しむ
イザヤ66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
聖書に書かれた事実だけに密着し、神の語る真実からだけ考える
なら永遠に続く真理に繋がれて見えて行きます。
聖書=神の言葉=教えをどの箇所でも否定するならば、
それは人間が勝手に言って主張しているだけの自分勝手な
思想、信仰なのです。
自分の都合、嗜好、習慣、習わしに反する都合が悪い事が
書かれているからその部分の神の教えは破棄されたと
本気でダービーの様なトラー=神の言葉、インストラクション
教えを否定する人間が作った教えを信じて、神の教えの方を
何の疑いもなく却下しているだけです。
しかし人間の神の言葉を破棄する教え、行為イコール、
神の言葉がそれで終わりだという事実にはならないのです。
神が神の言葉、教え、契約は永遠!と人類に伝えている事を
信じるのか信じないのかは個人の問題なのです。
14:4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。
彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。
しかし、彼は立つようになる。
主は彼を立たせることができるからである。
続く