イエシュアが創造し招いてくださる記念日を大事に生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人の生活の中でも特別な記念日があり、それを迎える準備をするので、特別な日に対する期待と喜びがあるのを誰でも知って

いると思います。神の記念日に向かって日々準備して生きることの中にも、生きる上での秘訣を教えられているものなのです。

 

普通の日と違う体験があるのです。印象付けられるでしょう。

特別な日に特別な準備をして特別な大事な人たちと神と祝う

記念日の体験は人の記憶に印象深く刻まれるものだからです。

神の記念日の全てはイエシュアそのものなのです。

ヘブライの世界は哲学思想ではなく、神の教えの全ては実際に

生きることに直結しているのです。生きる!これを”歩く”と

言うのです。日本語でもありますね。歩み。

歩み=ハラハー=実際に神の言葉をどう生きるか?が

ユダヤ人の世界での論点の中心であり、神の言葉が終わったとか

無効になったなどの永遠の神の言葉を覆し踏みにじる様な

議論などあり得ない!のです。

 

そして義とされた人の新しい人の生き方に切り替える日々の

サイクルの継続を経てその特別な日を迎えるのです。

 

シャバットで体験、学んだ事を次の6日の間もずっと継続して

生きるのです。そして次のシャバットに向けて準備をする。

頭脳の準備、実際の生活の上での仕事の仕分けを通して、

様々に神の言われた通りを生きる事の祝福を学ぶ。

シャバットに神が言われた通りに止まる、

生活の糧を得るためにあくせくしない。

エデンの状態に地上に居ても皆で戻りエデンの実態を体験する!

 

異教の地では土曜日も働く人も居るので、その場合はその日が

なんであるのかちゃんと考えて時間を聖別することは出来ると

思います。その日の中に聖別する時間は必ずあるはずだから

です。それが異教の地のハードルなのです。

イスラエルだけが神の暦通りを国全体で生きているからです。

 

ダニエルもバビロンと言う異教の地で最大限にトラーを

生きて居た。ダニエルの生活環境にもイスラエルとは違う

制限があったのです。

 

ロックダウン以降イスラエルに行けないのですが、

今まで以上にイスラエルと世界中にいる仲間とシャバットで

その週のトラー箇所の学びの他、他の書=預言書、歴史書、

諸書をずっと学び続けて、記念日になると一緒にその事を

祝い、学ぶ。

ほぼ一日置きに色々な学びや交わりで繋がる事が出来る機会を

得ています。

本当にありがたくずっと願っていた事が叶い感謝しています。

 

”2テモテへの手紙3:14−17”で”あなたは誰に聖書を学んだか知っており”とパウロが言った言葉がありますが、

確かにその通り、どんな人に聖書を教えられたかで自分の中に

神に対する正しい意識や神の言葉に対しての正しい理解を

培うのかどうかを決めてしまう重要な鍵があるからです。

 

聖霊に教えられるから大丈夫と言う場合、この世界にある

どの分野の学びでも同じ事を言うことが出来てしまいます。

聖霊に導かれれば、誰も未知の世界の学びの分野で教師やお家元に習う必要はない、教師、手ほどきは要らないと言う、

飛んでもなく飛躍した考えに走るのです。

 

そんな事ある訳ないのです。大学受験も聖霊により導かれれば

全部回答できるみたいな考えをする人はいないはずです。

神はトラーを教える教師をちゃんと選んで立てている事実が

あるのです。

そして、聖書に沿わない違う神像を持つ人に聖書を教えられたら

それこそ、その人の中にある聖書とは異なる想像上の神像や

聖書の解説が自分の脳回路にインプットされてしまうのです。

神はトーヴの教師を立てられた事実が聖書には書いてあります。

福音は聖書はユダヤ人から伝えられた事実がある。

だから神に選ばれた預言者がいるのです。

それがユダヤ人である事実があるのです。

神がイスラエルを選んだ理由は聖書に書いてあります。

そして聖霊により聖書を書いたのはユダヤ人です。

 

世界の中でユダヤ人だけがヘブライ原典聖書を読み、学び続け、世界中でシャバットで同じ箇所が一斉に読み続けられる。

神の記念日をどこにいても皆祝う。

そんな事をする国も人もイスラエル以外無いのです。

 

異邦人の世界で、異邦人が先祖代々ヘブライの書、トラーを

ヘブライ語で学び、書いてある通りに読み、異教の地に住んで

居ても神の記念日、シャバットや祭りを祝い続け、子供らに

神の言葉オリジナルヘブライの聖書から教え続ける事が出来る

なんて状況や、その様な体験をした人達に出会った事が

無いと思います。

 

異邦人は翻訳聖書は読んでも、ヘブライ聖書は知らないのが

普通なのです。

私はレビ記23章に書いてある神のオリジナルの記念日が

何の意味があり、それを異邦人でも神の子らは祝うことに

招かれている事実さえ知らなかったですし、

13年前まで教えられることも全くなかったのです。

 

神は寝ても覚めてもトラーを学び、考え、思い巡らしなさいと

知りなさい!トラーを追求し続けよ!と教えているのです。

それは人を守る保護ガード、命の木だからと教えているのです。

ドラゴン クエストではないけれど、トラーを一生涯かけて

クエストする。神=言葉=聖霊だからです。

 

エペソ2章の様に同じ契約に加えられ、同じイスラエルの神の

家族とされた、イスラエルとは何の縁もない異邦人も

同じ家族とパウロが説明していますね。

 

1コリント5章で神の祭りを祝うこと、新しくされた人として

あなたはマッツアだから、マッツア=ハメッツ=罪がそぎ落とされた種無しパンの実態で祝おう!と教えているでしょう。

同じ家族は同じ神の記念日を生きる!と聖書には書いてあるのです。

翻訳聖書で、この箇所を”イースター”を祝おう!と訳されているものがあるらしいと聞いたことがありますが、

イースターはローマの祭で、パウロやイエシュアや預言者たち、

ユダヤ人、異邦人たちが聖書で祝っていた春の祭りは

過越の祭り、種無しパンの週、その中にある初穂=復活の命

復活の命に繋がれた事実を回想してパン種除去をし続けて

生きる成長の7週間=穂を数える7週間と7回のシャバット

を経て、婚姻契約=トラーを受け取った事を記念するシャヴオート=ペンテコステ<ギリシャ語>を祝うのが聖書のオリジナルの

神の記念日の日程なのです。

パウロはマッツアの状態で”過越の祭り”春の祭りの一連を

祝おうではないか!とコリントの人達に教えている事実が

書かれているのです。

そして1コリントは過越の祭りに関連してパウロが教えている

記述がされているのです。

 

1コリント 5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。

あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。

 

5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者=マッツアなのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、

すでにほふられたのだ。

 

 5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭=過越の祭りをしようではないか。

 

続く