ローマ 7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となった
のか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが
現れるための、罪のしわざである。
すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
トラーに照らし合わせれば、自分の中に潜んでいるパン種=
罪=ハタは、暗闇の部屋に灯りを付けたら毒蛇、虫、ゴミ満載であったことを初めて自分の目で見て、気がつくことができる。
それがトラーにより自分が関わった”悪性”が明らかにになり、
神と遠く離れた場所=死の中にあった事をに気が付く。
これからの箇所も単純に読み込みの誤解をしている箇所だと
思います。ここでパウロは、はっきりトラー=神の教え、
インストラクション、モーセの五書は善=トーヴであると
言っていますね。パウロは13節で何を話しているのかと
言うと、神のトラーに照らし合わせる前は、人の中には確実に
罪の判断基準が無いので、罪が何なのか判別がはっきり付かないと言う事です。
善なるもの=戒め=神のトラー=教えにより、自分の状が”死”
の状態=神の命から切り離された生き方であった事実をはっきりと突きつけられてしまうのです。
パウロが語っている内容があたかも”神の教え=トラー”が
人に悪さをするなんて読み違えてはならないのです。
神の戒め=トラー=教えを知らない状態の時は、自分の都合や
自分の考えでこれはok、あれはダメ位の意識で善悪=
神の意図か神の意図では無いかを考えていたからです。
今の世界がこぞって支持して絶賛している生き様や行動は
神のトラーに照らし合わせればそれらは完全にタブーで
あることがあるのです。
そして罪とは道徳的な罪だけではなく、神の定義する罪は
実は道徳とは全く関係の無い汚れも神から教えられて
いるのです。これはトラーを捨てて破棄されたと誤解する場合には全く理解できない内容なのです。
神の教える聖別の意味も生き方も、トラー=モーセの五書を
捨てたら理解出来ないのです。
道徳的な事は神を知らない人にも普通に理解出来る内容ですが、神が人に伝える”姦淫の罪”は道徳的な行動とは関係の無い内容、神の目には何が汚れで、異教徒の習わし、生活スタイル、
生き方を取り込むことなどこの世では罪とも思われないことが
神の目には罪であると書かれているのです。
7:14 わたしたちは、律法=ノモス=神のトラーは霊的なものであると知っている。
しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られて
いるのである。
ここで話されていることの中にいくつかの事実があります。
創造主に出会い、贖われる前の以前の人=肉に付ける者であった状態から、贖い出された後も”主と共に葬られ、そして復活の命=義とされている”のだけれど、以前の肉のままの人で生きて
いた記憶は今も実際に脳回路の中にインプットされていて
その記憶は罪の中に囚われていると言う事実をパウロが話しているのです。その区別をしなくては、パウロの話している意図を
誤解して読む箇所です。
この箇所も誤解する箇所の代表的なものだと思います。
人の思想の”性悪説”に基づき考えれば人間は悪、一人も善人は
いない。救われた後も本当はなおも”罪人”と言い続ける教えが
ありますが、神が人に伝えている”新しくされた人、神の前に
雪よりも白くされてきよめられている事実”が聖書=トラーに「書かれているのです。福音書以降を読んでも分かると思います。
その違いをちゃんと区別して考えないとならない重要な
ポイントなのです。
神は人をトーヴ=神の似姿に造られたのです。
それが本来の人間の姿です。そして、エデンの園を飛び出した、
ポストエデンに生きた人達はもれなく”ズレ”=罪の中に生きて
いた記憶、影響を先祖代々受けて、義人はいない。
でもアヴラハムは神から義とされそれを世界の民族全てに継承、伝達する役割を与えられましたね。
はっきり区別して考えてみれば何を説明しているのか分かります。
イスラエルの神=イエシュア=救いに出会うまで人は誰もが
ポストエデン、蚊帳の外状態だった。
だからその状態の全ての人=義人は一人もいないとあるのです。
そして神に出会う前の自分の状態で生きて来て、救われた後も
記憶は自分の頭脳の中にはっきりと今も残っているのです。
だから今日救われたとして、それ以前に習得した色々な事を
そのまま出来るのは”脳”が入れ替わった訳ではないからです。
思考回路、思考パターン、肉の目から見て考えるパターン、
行動etc etc etc。これらは神の命のサイクル=モアデイムの
中で次々新しい人として生きる練習で、肉の脳回路を離脱して
行く過程に地上ではあると聖書に書いてあるのです。
それをパウロが話しているのです。
新しい人として生きる、でも主と共に死んだ以前の自分の記憶
行動、思考パターンが存在しているので、以前の自分の思考、
行動パターン=それに常に邪魔され引っ張られてしまう葛藤を、パウロは書いているのです。
7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、
かえって自分の憎む事をしているからである。
もしも本来の性質が罪人なら、罪を憎むことなどしないのです。
罪が自分の本来の性質では無いから本当の自分は罪=ズレを
憎むのです。
このパウロの言葉は、誰でも皆体験的に理解している内容だと
思います。
神の性質、神のトラー、神を愛する人は神の言葉を生きる事を
腹の底から願望している者です。そして神の願う、伝える通りに生きたいと本物の自分=イエシュアに繋がれている自分は本当にそう考えているのに、肉のパターンが染み付いて、ズレた以前の行動や思考回路、肉の目から考え、行動してしまう。
これ本当に考えて行くと分かるのです。
自分の中にズレの思想、思い、考えが潜んでいる。
自分はそれらを憎んでいるのに、肉はそのズレた性質に
沿って自然に思索、行動してしまうジレンマ。
7:16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、
わたしは律法=ノモス=罪の法則が良いものであることを
承認していることになる。
もし人の本来の性質が”罪人”=性悪説=神の似姿では無い=罪の律法、法則=ノモスに繋がることを願望するのが神の造られた
人間とするならば。。。。
その罪の律法は、人間の成り立ちなので、良いものであると
承認していることになってしまう。
良いもの=神の意図通りが罪の法則であると承認していることになる。神の教えと辻褄合わない教えです。
聖書にそんな教えが書いてある訳ないのです!
7:17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
<ここがパウロの言いたいポイント!!!!
罪の法則、罪の奴隷で生きていた以前の自分の亡霊に
引っ張られてしまう。でもそれは本物の自分ではない!!!>
パウロが1コリントで語っている内容を思い出せば良いのです。神の記念日=モアデイム=シャバット、新月、そして春と
秋の祭りを祝う人達ならクリアーに理解出来る内容です。
潜んでいる罪=パン種です。これらはあなたではないものです。
外から来るもの。あなたの性質=神の性質に似せて造られた
ピュアな性質です。ピュアな小麦粉の中に、パン種=罪=ハタが入り込んだら別物の姿に膨らむと教えられているのが、
過越の祭のパン種除去と、種無しパンを食べる7日、
初穂=イエシュアの復活の命に繋がれた事実、
そしてシャヴオートでピュアな最上の小麦粉の中にパン種=
イエシュアの性質を入れたパンを捧げて祝う日の中で
最初から教えられている内容なのです。
1コリント5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。
あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体を
ふくらませることを、知らないのか。
<古代は以前に作ったパンのタネを残しておいて、
それを使って次のパンを作るのです。以前のパン種の残り。
それが古い自分、以前の自分の中に潜む罪=パン種=ハメッツ
と書かれているものです。
パン作りをした人なら分かると思いますが、
ちょっとのパン種でも小麦粉が膨らむのを知っているでしょう。
すごい量に膨れ上がりますよね。>
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。
私達の過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
新しい粉=初穂を数える7週を過ごした後、シャヴオートの祭り
では、最上の粉、これも自分の手で古代は小麦をひいてそして
新しいパン種=イエシュアの性質を表すものを入れて神の祭壇に
捧げるのです。
事実あなたはパン種のない者だから!パン種のない者=マッツア
=種無しパン=マッツアとは、要らないものがそぎ落とされたと言う意味、要らないもの=ハメッツ=パン種=罪です。
パウロの語る事実が分かると、性悪説=救われても罪人と言う教えとは違うことを語っている事に気が付けると思います。
続く