聖書に書かれた内容 聖別の本当の意味 vs   異邦人が作り出した西洋宗教文化の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

天の神の国に実在する神の家、そっくりそのままを地上で表す

場所を神が選ばれました。その都はエルサレムです。

都、キャピタルには国の全ての機能が集結していますね。

国の全ての重要機関がそこにある。

 

全世界の中で唯一イスラエルの神が聖別=他の国と分かたれて

天の現実を表す場所、神の言葉=教え、インストラクション=

トラー=モーセの五書=神の永遠の婚姻契約をガードして

”エデン”を生きる場所と人達=国民を唯一の代表として選び、

そしてそのイスラエルと言う大家族に他の全世界の民族も

同じイスラエルの神の中、同じ婚姻契約を生きることに

招き入れていると言うのが聖書に書かれている事実です。

 

祭司の役割とは仕える場所と仕える対象があります。

仕える対象=イスラエルの神です。

仕える場所=神の臨在する神ご自身の家。

天にある見えない神の国、神の家=本体の実態を映し出す

地上の影=レプリカを通して実際に目で見て、

五感を通して様々に実体験、学習する場所を神が設けたのです。

 

トラー=モーセの五書に書かれた”イエシュア”そのものの実態、

イエシュアの業の詳細、神の家族の意味、生き方、姿、そして

修復と祝宴=神の記念日を実際に地上で肉眼で見える

神の場所で行われるために神がデザインしたものです。

この中に絵画的教えが見えます。Picture language.

 

1つ神の中、1つ家、1つ家族全部がエハッドでありシャロームの状態で集い祝う。

その家族の印は、色々ありますが、独特の記念日を都上りの

祭りで表すのは、世界の四隅からこの1つの場所!に上って

行く。想像しても福音の中心が見えてくるものです。

最後は1つ。全世界に散る神の民は1つに集められる。

 

神の栄光、性質が現れる一番の条件は何ですか?

神の似姿に創造した人を通して。神の似姿に造られた人達が、

神の性質通りを神の言葉=教え=実態で生きる人達の中から

表れ出るのです。

それが神の栄光が現れると言う意味。神の性質、キリストの香りとは、神の性質を生きる人の生き方から表われ出る。

人の言動、人の思索、それは人の実際の生き方、

行動で表向きに人に認識されるものだからです。

 

だから神の言葉を画餅のごとく眺めるだけで、実際に神の性質=教え=言葉の実態を生きないならそれは死んだ信仰と

聖書に書かれている通りだからです。

 

神の言葉を生きる事で義や救いを得るだから悪いのだと教えるのがクリスチャンの世界で流通している教えですが、それは、

聖書では無いずれた発想、思想です。神の言葉を生きる事が

イコール律法主義と言う神の教えでは無い人の教えを捨てる。

救いや義は行いでは得る事不可能!と書いてあるでしょう?

 

律法主義とは自分の行いにより”義”を獲得するという偶像礼拝

異教の神々に関わる関わりと同じ。顔色伺いアプローチし

懺悔と努力とアピールでお恵みに漏れない意識。

異教神に対する関わりと同じ意識そのもの、神へのずれた

アプローチ、関わりの事を偶像礼拝、努力や行いで頑張り獲得

する意識=律法主義と言っているのが聖書の定義であり、

イスラエルの神を信じる者は、義とされた人に相応しい

”イエシュア”の実態、性質=イエシュアの実態の詳細は文字で

書かれたものがモーセの五書なのです!

トラーを生きる!と聖書には書いてあるのです。

こんなシンプルな事実が全く伝わらない、語られない、

別の教え=人の思想で神の言葉、教えの真実が全く覆われて

しまって今に至るのです。

 

人の教えで刷り込まれたずれた思想の意識を根こそぎ取り除けば

神の永遠不変の真理=言葉=教えが鮮明にクリアーに頭脳に

響いて来ます。

 

ヤコブ2:16 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きな

さい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに

必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、

なんの役に立つか。

<クリスチャンも知らない間にモーセの五書=トラーを生きて

いる事実があるでしょう?>

 

2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、

それだけでは死んだものである。

 

2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には

行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、

わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。

 

2:19 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。

それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。

2:20 ああ、愚かな人よ。

行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。

 

神と人との交わりには場所があります。

家族には家があるでしょう。

その家族の一番親しい交わりの場所はどこですか?

”お茶の間”!そしてお茶の間の”テーブル”を囲むでしょう。

そこで嬉しい楽しい素晴らしい祝宴、食事や会話交わりが

行われるのです。

それが神の神殿の中でも行われたのです。

レビ記の中身を書いてある意味通りに学ぶと、一つ一つの事柄に

永遠に深い真理、麗しいイエシュアの業、性質そのものが

解説されているのです。

神の家族の生き方、人の生き方、そして人は神とどの様に

関係を保ち、神にどの様に近づくのか教えられている、

その全部の詳細がモーセの五書で教えられているのです。

 

自分思想仕様の方程式には当てはまらない。

神の指定する通りを言われた通りに生きる。

そして場所=神の宮と神の宮である自分、時=神の指定した

定めの時を聖別する意味がクリアーにトラーの中には

教えられて神の言葉でそれらが直接語られているのです。

 

人間的にはこう考えますよね。

”自分なりに神を愛して、自分の気持ちや動機が何より

大事だからそれで良いのだ!それが一番”と考えるけど、

神はクリアーに人に語られています。

 

”神が伝えた通り、神に言われた通り”そっくりそのまま!

言われた通りに関係を持って。言われた通りの聖別を保って。

わたしが聖であるから、あなたも同等の聖でなければならない”とその詳細がトラーに書かれているのです。

それって一体どう言う意味?ですよね。

 

その詳細がモーセの五書に書かれています。

レビ記など聖別の意味そのものが書かれています。

場所に対する聖別と時に対する聖別。婚姻契約の中=神との関係に加えられた人の”国民的契約”が記されているのです。

それは永遠に変わらないのです。

 

神殿がエルサレムにあったAD70年まで、昇天以降も変わらずに

イエシュア信者達、使徒、パウロ達は、エルサレムに居る時は

神殿中心で過ごしたのです。昇天以降も動物を屠るコバーンを

捧げていた。変でしょう?なんで昇天以降もそんな事するの?

最初から罪の仮の赦しのために動物を捧げているのではないからです。

しかも異邦人でも都上りをして来て同じように動物のコバーンを

捧げていた。パウロも!人の教え=昇天以降は契約、教えが

無効になったと言う人間が主張する教えと、聖書の記述が

辻褄合わない所を真剣に考えれば良いのです。

聖書だけに基づき真実を見出し、考え直す。

 

シャバットも変わらず第七日目に祝われている事しか聖書には

記されていない。曜日変更も祭りが変更された事実もないし、

もちろん聖書に記録もされていない。同じ永遠のイスラエルの神が創造された記念日、祭りを皆ずっと祝い続けている。

トラー朗読をイエシュアもされた様にその日を神が言われた通り聖別し労働せず、交わり楽しむ日、神のされた業を祝福し、

その事実を祝いその事実からだけ週の残りの6日を同様に

生きたのです。

 

 

 

続く