都上りの絵を見ると世界の四隅から神の民を神が引き寄せ
神の中に、同じ家族として1つ!エデン=喜びの中に住まう
復元、修復、シャロームを思います。
聖書の事実だけ、ヘブライ語で表される神の性質=エハッド、
人の成り立ちエハッドで表されている通り、分離分派別々の
イスラエルと異邦人バラバラ別々のグループと言う教えは聖書では無い、トラーに馴染みの無い西洋思想の異邦人が編み出した
教えであることがクリアーに、聖書の記述に照らし合わせる時に
明らかになり、理解出来るのです。
詩篇133:1 見よ、兄弟が和合して共に<エハッド=一体で>
おるのはいかに麗しく楽しいことであろう。
133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、
アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。
133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。
これは主がかしこに祝福を命じ、
とこしえに命を与えられたからである。
過越の祭から7週の間、復活の事実を生きる”穂”を数える日々。
この日々の中で復活のイエシュアは弟子たちに現れ、
繰り返しトラー、預言書からイエシュアが教えられたことを
復習し教え続けた記録が福音書にあります。今がその時期です。
新しくされた命で日々生きることの強化練習週間。
シャブオート<ペンテコステ>は過越の祭りに続いている
春の締めくくりの祭りでこの祭りの趣旨は聖霊初降臨の意味
ではなく”トラー”=婚姻契約がシナイ山で与えられた事を祝う日であり使徒2章はトラー=モーセの五書がエルサレム、シオンから今度は大々的に全世界へ伝えられるその幕開けでもある証明が
あの使徒二章の出来事なのです。
同じ契約=同じ人間が同じ創造主の教え=トラーを生きる
エデンに戻る、修復の道のりが敷かれた、それが福音。
ペンテコステを語るなら、その祭りはクリスチャンの世界で
唱えられるモーセの五書は終わり、神の祭りも終わりと言う教えにそえばペンテコステの祭りも同様に無効!律法だからと
とならなくてはならないわけです。
なぜなら、そのシャブオート=ペンテコステの祭りは三大都上りの祭りの1つだからです。しかもペンテコステはモーセの五書を
与えられた記念日なのに、矛盾だらけでしょう?
使徒二章は、モーセの五書廃止記念日?になってしまいます。
しかも使徒たちが全世界へ運んだ教えはなんだと思いますか?
新約聖書?いいえ!モーセの五書のみが彼らのテキスト!
新約聖書とあたかも聖書が分断していると誤解を刷り込むタイトルの箇所は、実はモーセの五書の解説=イエシュア=トラーが
地上で生きた内容。そしてそれ以降は全て世界へトラーが
教えられ、伝えられた記録と、パウロのトラーを諸外国の
状況の中で実際の日常で生きる上での適用や問題に対する
トラーからの解決策が書かれているだけ!!!!
黙示録は最後皆トラーの生き方=エデンの中に戻る!で
締めくくられています。
異邦人の作った教えは聖書とは異なる、神の言葉を否定して
聖書の事実では無い、矛盾だらけな内容を解説しているのです。
モーセの五書を教えに行った事実に対して目が開かれたら
聖書に記された神の永遠の真実、真理、事実が見えます。
神の教え、言葉を勝手に仕分けているのは、人の思想によるので聖書に記された神の祭りのデザインを完全に破壊してしまって
1つ=エハッドの繋がりが見えないのです。
神の祭りの一つ一つを学べば、イエシュアの業の全てを
表す預言的福音的祭りである事に聖書の事実から必ず
気が付く事が出来ます。
エルサレムの神の宮に向かって人々が都上りの旅路で
上る=アリヤーする。
世界の四隅から1つ場所、一つ家族として1つ神の中に
やがて集められる。
イエシュアが来られたら、全世界が神の教え=トラーを生きる
それがエレミヤ33章、そしてイエシュアの”新しく更新した
同じ契約”の意味。神の教えを頭脳に割礼がされた人達だけで
生きる世界が来る。
この聖書の記述に照らし合わせるとトラー=神の教えは廃れたと言う教えが聖書では無い、聖書とは辻褄合わない創作の教えであることは神の永遠不変の言葉のみで証明されるのです。
そして全世界は神の記念日を祝うためにエルサレムに来る。
これは全世界の人は来れなくても、国の代表は上って来るの
でしょう。エジプトまで!エジプト=偽の神々の代表代名詞の国もトラーを生きるようになると書かれています。
ゼカリヤ14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの
残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、
仮庵の祭を守るようになる。
14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、
エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
14:18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、
主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを
撃たれるその災が、彼らの上に臨む。
<仮庵の祭り〜一年最後の祭り=イエシュアの統治を表す祭り
でもあるので仮庵と書いてあります。神の記念日は全部丸ごと
1体=エハッドで完結なのです。仮庵の都上りの祭りだけを
祝うと言う意味では無いのです。>
14:19 これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を守るために上ってこない国びとの受ける罰である。
14:20 その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、
しるすのである。また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。
14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、
万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は
来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。
その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。
商人=神の教えを生きない人たちは存在しない。
神の言葉を信じるか信じないかはその人次第。
でも人が神の言葉を信じるか信じないかに関係無く
神の言葉は永遠に真実!不変!永遠に堅く立つ!と
神が宣言しているのです。
何を信じて生きているのか?と問われている。
続く

