モーセの五書は古い呪いの律法でうなじの強いユダヤ人=
イスラエルだけの教えさ!と考えるなら、それはとんでもない
偏見と誤解と勘違いが前提で聖書を読み続けている証拠です。
全人類、人種に関わらず神に贖い出された人はもれなく、
ユダヤ人であるイエシュア=救い主との関係の中に入っている
事実に気が付かないとならないのです。
異邦人だから気が付けないのと言うのが事実です。
何故なら、どんな人種でも神との関係に入ったと言う事はどんな事を意味しているのか?知らないとなりません。
結婚する前に相手と婚姻関係を結んだらどう言う状態になるのか
考えるでしょう。それと同じです。
”トラー”=婚姻契約=モーセの五書に書かれた神の子らに加えられた証拠に基づき生きると言う決意をした事でもあると聖書には書かれているのです。もしそれが嫌なら、それもあり!と書かれています。義とされた事は無条件に与えられている。でも神の
子らとしてその実態を生きるのは自由選択!強制ではない。
あなたの前に命と死を置いた。あなたは命を選びなさいと
言われたでしょう。神の教えから離れた生き方は隔たり=死
なのです。それを選ぶと言う教えを教えられてしまっている。
肉の生物学的な生まれに関係なく、全てイスラエルの神を
信じる人は、”イスラエル”と言う大家族の一員となったと
聖書には至る所に書かれて強調されているのです!
イザヤ56:1-8マタイ12:46-50 エペソ2:12-18
ヨハネ10:16ローマ11 もっとありますが。
それに気が付かないのは、聖書に書かれているその真実、事実を全く把握出来ていないと言う事になるのです。一応婚姻届出し
ましたけど、後は自分の自由判断に従い、自由自在に以前の独身時代=異教神の教えの元、この世の教え、文化、習わしで生きていたその価値観、教えと全く同じに自分の判断で、勝手に気ままに自分の感情の赴くまま生きます!それが恵、それが自由!?
に招かれたのだ〜と考える。
神の与えた自由とは、神の似姿=義を生きる自由!奴隷=罪の
法則、律法から解放されたから!と書いてあるのに書いてある
意味を神の教え=呪いの律法=神の言葉=トラーを生きる事から解放されたなどと、とんでもない変形した教えを信じこんでいるから聖書では無い教えを神の教えであると信じ続けて、汚れも
危険も神が忌み嫌うことが何なのかも、聖別の意味も全く理解しない、分からないままそれら神の教える汚れと交わり続け、
汚れたものを祝い、取り込み、独自の聖別、独自の生き方、
礼拝をし続けているのです。
嫁ぎ先の婚家の生き方は自分には全く関係ありませんと言って
生きる事をしているのです。福音書以降が新しいイエシュアが
教えた別の契約=最新式の教えであるなどと、聖書を誤解、
勘違いしてはならないのです。
別の福音=神の言葉=別の父の教え=別のトラー=教えは無い!とイエシュアも宣言しているでしょう?
そのイエシュアの言葉を真っ向から否定するのでしょうか?
新しい別の教えとはて一体何を根拠に証明出来るのでしょうか?
ただの人間=西洋人=人が主張して唱えて世間に広く長年
受け入れられた神の言葉でもなんでも無い作り話、
それって神の言葉でもなんでも無いただの人の教えでしょう?
ここが異邦人の神の言葉=聖書に対する思考回路盲点!
落とし穴!なのです。
福音書以降に書かれた内容、教えは100%トラーとマッチして
別物の教えなど其の中には一切1回も書かれていない!!!
そんなトラーとは違う”ぬるい”=混ぜ物の教えなど、聖書には
書かれてもいない事実に全く気が付かない、その原因理由は単純です。トラーに書かれている内容を書いてある通りの意味で
学ばないから知らない=書いてある通りに学べば気が付ける、
分かる!殆どがそれをしていないからです。
だからトラーが書かれていると言う事実に全く気が付かないまま別の教えが福音書以降には書かれていると人の教えを信じ込み、聖書を誤解して読んでいる。
”イスラエル”と言う代表者=大家族を通して造られた1つの
神の選び出した地上で天の現実、実態を反映する国、
神の似姿を生きる代表とされた国民。
そして神の家に加えられた人々全ての人達に対する
”ナショナル カヴァネント”=国民契約書がトラー=婚姻契約=
モーセの五書なのです。
日々の生きる生き方の全貌が書かれていて、それは永遠の真実。レビ記11章など神の子らの聖別が教えられている日々の生き方そのものが書かれています。
命の木からだけ食べる!善悪の木の実は食べる様にあなたは
造られていません!と言う事実を神が人に伝えている。
その実際がレビ記11章に書かれています。これは10日の
シャバットで読まれた週のトラー朗読の箇所です。
日本語で契約と言うと冷たい取引みたいな感じしますが、
永遠の”ちぎり”と言う言葉の方がグッと近く感じます。
ちぎり=血のちぎり。イエシュアの永遠から用意された代価で
私達一人一人は神の家の家族とされたのではないのでしょうか?
キリストの花嫁が生きる姿、油を持っていた5人の乙女の
たとえ話をイエシュアがされていたでしょう。
その油とは、婚姻契約=モーセの五書=トラーのことを指して
イエシュアが語っている事実に気が付いて読んでいますか?
神の言葉=トラーをずっと生きて準備して再臨=子羊の婚姻の
祝宴を待つことの過程にも繋がっている教えなのです。
このリハーサルは神の記念日の中でずっと行い生きて祝うものでもあるのです。シャバットからシャバットを生きて
春の過越の一連の祭りを生きる。そしてこの10人の乙女の
例え話は、秋の祭りに繋がる、まだ実際に地上で起きていない
預言的祭りへの準備期間、それが国民全体のシュヴァー=
大贖罪日=最後の審判、そしてその後にある子羊の婚姻の
祝宴=仮庵=イエシュア の中に住まう事を表しているのです。
預言的教えでもあるのです。油=神の言葉=トラーを生きない
全く神の教え=言葉に目覚めていない、根付いて居ない肉の目のままの状態で違う教えを生きていて、突如イエシュアが不意打ちで再び来られる。でも神が言われた通りを生きていないから、
準備が無いのは、油=トラーを内側に持ち生きていない5人。
5と言う数字を読めばユダヤ人なら誰でも5=トラーを指して
語っている下知識がちゃんとあるのです。
だからイエシュアが説明無しに5人と五人=10人の乙女と
語っている。
語られた数字が表す意味を知って当時の聴衆は聞いている!!!
異邦人は聖書に書かれた基本的コンセプト、概念、ヘブライ的
思索、理解、知識が教えられる事無く欠けていて、自分の宗教
や教え文化の体験と照らし合わせて考えてしまっているのです。エペソ2章、トラーを全く知らない、馴染みない生まれ育ち
だからです。西洋宗教の教えや思索のみを根拠として考えているから聖書に書かれている意味が見えないのです。
5なんてただの数字〜と考えるだけ。
10も=10の言葉=モーセの五書のタイトル=トラー。
同じです。
神の言葉に根付かず生きていない人達がその後どうなったかの
結末がイエシュアの言葉で書かれていますよね。
花婿を迎える人は、ずっと日々、生きる中で常に準備をする。
神のシャバットからシャバット、神の福音的預言的祭りを生きて
新しい人としての義の道の新しくされた命のサイクルを生き続けて準備する。
それが今の時でもあるのでしょう。地上の時。救われた人が生きるのは神の教え!地上に在りながら天の現実に生きている人達とイエシュアが言われた神の子らは神の子ららしく生きる!
それがトラーに書かれているのに全く頭脳に響かない、捉えられない、分からない、理解していないまま、西洋人の宗教の教えの世界ではこんな教えをされています。
福音は、救い=イエシュアは2000年前に初めて現れたと
言う非聖書的デイスペンセーション西洋人創作神学を元にした
教えを信じている典型的な教えの一例です。

”イエス様を信じる人にはイエス様がその人の心においでになりました。旧約聖書の旧約、その時代には、
喜ばれる生き方をするために律法を与えました。
新約聖書の新約、これは今の時代です。新しい恵の時代は
キリストに従う生き方をしましょう”と言う教え。。。
でもこの教えには落とし穴があります。キリストが語られた
教えとは100%モーセの五書以外別の教えなどない!
新しい時代、太古の時代も同じ神の教え!なのです!!!そしてイエシュア =救いは最初から語られている!イエシュア は
信じる人の中にどの時代でも最初から実在している!あたかも
新しい別の教をイエシュアがされて、それを生きましょう!と」この手の解説、解釈の教えは語っているのです。聖書の語る永遠普遍の福音、救い=イエシュアである事実に気が付いてない」からです。キリストに従いましょうと言われたらそうだ!と
それらしく漠然と納得したと思うかもしれませんが、
ではそれって実際に何を日々どう生きるの?て根拠、詳細は
まるで解説、説明される事はありません。
人が考えついた創作した教えのあれこれは事細かに解説されますが、異邦人の世界でトラーの内容、実際に生きると言う内容の
現実を詳しく聖書から学び、捉えて説明している解説など
私は以前は1度も聞いた事がありません。
続く