異物を持ち込む危険への警告 大祭司の家系の子ら アロンの2人の息子達 アダブ ナビフの死 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

モーセの五書=トラー=婚姻契約は聖書に書かれている

全ての礎、土台であり、聖書のどの箇所もトラー=イエシュアを指して語っています。

 

福音書〜黙示録も短い短い、トラー<預言書 諸書>の

コメンタリーである神の言葉の事実!はちゃんと捉えて、理解して学び続ければ、神の教えの中身の永遠の深さ、人の生きる

詳細が見えてきます。

トラー在りきで、それ以降の聖書の全てどの箇所も、

簡単に言うとトラーの内容の解説、コメンタリーとして書かれているものなのです。

 

モーセの五書は”婚姻契約”=神に買い戻され神に属する者として

聖別された人達は、神オリジナルのデザイン=神の似姿を生きる

方の自由の中に招き入れられた人達であると神が人に教えて

います。でも、19世紀に創作された神学は昇天以降は神の言葉はもう学ぶ必要も、生きる必要もなくなったのだ!と聖書とは

違う教えを教え続けているので、そのスタート地点から神の言葉に相反する思想思索、行動を教えられてしまっているのです。

 

神に造られた元のオリジナルの人間=贖われた人の生き方の

意味、内容、全貌は神だけが人に伝える事が出来るもので

人が神の創造されたデザインをあれこれ勝手に自分の思想や

意見で定義出来るものでは無いのです。

神の教えている人とはどの様に造られているのか、どの様に生きるのか?の内容や神の創造、そして性質、デザインに神に創造

されただけの人間が異議申し立てする事は出来ないのです。

 

異議申し立てするとは、神の教える教えなんて聞きたくなどありませ〜んと言う神に対しての表明であり、神に対しての根本的な

ズレ=反抗心が潜んでいると言う証拠でもあるのです。

 

先週の土曜日、10日のシャバットで読んだ週のトラー朗読箇所は、レビ記9章から11章でした。この箇所でこれの意味が顕著に語られてもいる箇所なのです。

神が人はこれこれする様に造らてはいないから、それはあなたの性質とは違うもの、だからこれこれをしてはならない。人はこれこれする様に造られていて、それがあなたの本質であり、それを生きる事が本当のあなた=神の似姿である性質が別の生き方で

妨害されず、最大限に神の性質、似姿、本質、栄光がその人の

生き方を通して表われ出る生き方だから、それを生きるのですと言う神の解説を人が本心から聞いて生きるのか、聞かないで

神の言われる事と違う事を生きるのかどちらかなのです。

 

神の言われる事を聞いて、神の教え、言葉を頭脳に留めなかったアダムとイブのズレの結末が聖書の最初に書かれています。

たかが食べ物でしょう?どうして”死ななくちゃならないわけ?”

と肉的な目で考えたらそう思いませんか?私は思いました。

どうでもいいじゃん!それ位どうって事無い程度の意識。

自分の考えがどれほど神の意図している思索からズレているのかでもあるのですが。

 

これと同じだと思います。私達の生きている社会、世界の中で

たとえば、”高圧電線 触るなかれ”と解説図まで付いて、触ると

感電して死ぬと言う警告がありますね。又は放射能に触れたら

死ぬとか、この場所に立ち入ると危険とか、見た目は平気そうでそれ位と思うものがあります。

その警告を無視して敢えてその危険ゾーンに入り触れて死ぬ場合

その警告を書いた人は酷い人だと思いますか?

思いませんよね。危ないから警告しているのに、無視した人が

完全に愚か、悪いと分かるでしょう。それと同じです。

 

私達の頭脳では神の言われることの意図が全て理解出来なくても、神が禁じたものは100%過去も今も未来もいつでも危険だからダメ!と言う意味がある事実を知らなくてはならないのです。聖書に永遠の教えとして記されているのです。

 

しかも全部簡単な警告でしょう。これ食べてはダメ!とか、

これこれしたら危ないとか、するなかれ、これこれをしなさい、シャバットをガードせよ、汚す場合は死に値するとか、肉の目のまま神の言われる意味を理解しない場合は、意味不明でしょう?神が言われている意味、内容、その日をガードする重要性の詳細が理解出来ない場合には特にそう思う。いつの日でも礼拝、

いつでも安息日?そんなわけない、そうすると毎日休業日です。なんでもいつでも気持ちがあればそれでいいんですと

4世紀に西洋人=ローマは勝手に宣うて違反、神に対する冒涜を平気でしましたが。詰まりその心は、”人間至上主義”神の言葉=教えは二の次。

 

全て普通に日々する事の中で重要な事を実は神は人に教えているのです。そしてそれらの教えは簡単に無視も出来るし、違反を

してもすぐに影響など出ない。普通に違反しても何も感じない、

重要に思えない事です。道徳的な事とは関係な数々の事だから。

イスラエルも混ぜ物の教えの高き所の礼拝を1000年以上も

続けても神は黙って放置していたかの様に無言。

だから同様に2000年近く行われた神の教えではない様々が

神に認められているから浸透しているのでは無いのです。

 

特にこれらに触れてはならないとか”契約の箱”みたいに。

又はこれらはあなたの食べ物では無いと言われたら”なんで

そんな事言うわけ?!”と文句言いたくなるでしょう。

 

今はなんでもありの恵の時代なんでしょう!?などと誤解しているからです。しかも食べてもすぐには死なないし、影響や意味が

感じられなければ尚更自分の育った慣れ親しんだ慣わしを重視

したいです。自分が中心。自分の理に叶うそれが判定、判断、

行動のの本当の基準になってしまっているのです。

でもイスラエルの神の教えは異邦人には始めから異物である事を知らなくてはならないし、人がする普通の事が神に取り、異物であり、汚れた行動でもある、その内容が書かれている。

 

なんでもする自由が与えられたのではなくて、神の語る真理=

教え=義=神の似姿に罪に支配されずに自由に生きるその自由が与えられたと聖書には書いてあるのに、神の言う事を丸で無視して、神の言葉は終了したからそんな教えはもう今は生きる必要がありませんと解いた、西洋人マルキオンやダービーが唱えた人の教えが神の教えと勘違いした教えを教えられ続けている。

その教えを純粋に信じているのでイエシュアがどうして地上に

来られたのかの意味の全貌を捉えていないのです。

 

父の教え=トラー=モーセの五書を正しく神の意図どおりに

理解する様に教え=例え話でたくさん教えましたね。

そしてその教えを実際の生活の中で的外れでは無い生き方を

教えるために来たとイエシュアの言葉で実際に人に語っている

通りなのです。

 

まあ高圧電線の場合は危険と理解している人の方が常識的であり一般的です。意義無しにこれは危険とわざわざそれに触れようなどとしないのが普通です。でもこれは食べてはならないと言われたら、アダムとイブの様に別の教えにそそのかされ、自分の理屈考え出し、神の言った事は半分嘘かもと疑った。そしてどうしてこれ食べたらダメなのか、理解していない、そんな教え、

どうでもいい事だと考える。

 

人間的な理屈で考えるから分からないだけなのです。

このレビ記の9-11章の中に書かれている事もそれと同じです。

 

かみさまってひど〜い!どうしてこれで人が死ななくちゃいけないの?と人は意義申し立てしますよね。

知識の木の実から食べるのは、高圧電線、放射能と同じ!

神の聖なる領域に人が神の言われた通りに、言われた状態で

入らないなら感電死するからです。

 

それを人は平気でやってしまっているのです。神の神聖、聖域、

汚れたもの=タメー=神の性質にマッチしないものを

神の中に自分の中にも持ち込めない、神が意図した通りの究極の親しい関係の中にそんな汚れたものを持ち運びながら成立しないと言う基本が分からないからです。

 

それは神が説明している内容を知らないから分からない。

神がもっとも忌み嫌う=ぬるい=混ぜ物=吐き出すと言われた

ものは人の持ちこむ、人の手で作った礼拝や教えや異教の神々のものが混じった異物、教え、混入したもの!それはピュアに100%純粋な神の聖域を侵害するものだからです。

それは過去も今も未来も永遠に同じ事なのです。

 

しかも書かれている事を読めば分かると思います。

食べてもすぐには死なない。ピンと来ない。

でも確実に破壊に進む。その結果が人類初の”大罪”は兄弟間殺人

でしょう。侮れません。これは関係の世界が壊れた結果、

これが一番重要な事。死=隔たり。神との隔たりの関係に飛び出し、人と人が神のデザインした密接でぴったりな関係が壊れて

関係の中に破壊が入り込んだ。セパレーション=死です。

汚れを取り込めば必ず悪影響がある!と教えている。

神の言葉は1つ体と同じ、どの部分でも取り外せない。

もし神の言葉を捨てるならそれは今の世と同じ、破壊の世界

汚れ、崩壊の世界の向かってしまう。

 

これは永遠の警告。古い教えは終わって、何してもイエスさまの血の許しが今はあるから、どんな風に生きようとなんの影響も

ないなどと言う人が作り出した教えを信じれば神の今一人一人に語られている永遠の教えの全て、それが知恵であり、励ましであり、警告でありなんであれども意味がない事になります。

 

 

 

続く

 

 

 

ナダブとアビフの行動の何がいけなかったのか書かれている

 

神のものでは無い、神が言われた通りでは無い自分勝手なやり方

近づき方 礼拝

 

 

契約の箱に触れて