神の語る”聖別”の意味 神の家に属する人達とは | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルの神、アバ、全世界を造られた創造主。

私達人間は、人間を造られた創造主からだけ教えられた通りを

ただ聞いて、聞いたらその通りを生きる、本当にシンプルな

事実だけが聖書では語られています。でも人は神の語られる教えや言葉に意義を唱えたい!自分の考え、意見、現代で言えば

自分の慣れ親しんだ生き方や習慣にそぐわない教えは完全異物

受け入れ難いから聞きたくない!肉的な勝手な理由動機で神の

教えを勝手に仕分けしているパン種満載。それが人間の本当の

ズレの原因である事が最初から書かれています。

 

反抗期の十代と同じ”うざいんだよ〜そんな教え”と悪態つきたい。神に聞くと言う基本は、昇天以降は神の言葉は終了!

神の教えは捨てて終わりになりました!なんて教えられ続けていたらそう言う気持ちにもなるのは当然です。馬鹿馬鹿しい〜

意味も教えられない理解出来ない教えなんて知りたくもないと

思うから。そして神の言葉を生きることは、イコール律法主義と言う教えをコンスタントに聞かされている。完全に神の教えと

遠く離れた思考回路を生み出し続けてしまったのです。

神の言葉拒否して生きよう!と言う狂った世界の教えと同じに

なってしまった。

 

神の教えが生まれつきのしかも異教神の教えの国に生まれついた異邦人に異物なのは当然なのです。それが”エデン”の園から

飛び出し、創造主を知らないまま異教神の世界にどっぷり先祖代々浸かって生きてきた代償なのです。イスラエルの神が教える教え、生き方、生活の細部に渡ってのインストラクション、教えは異邦人、異教神の世界の人にはそれは異物であるのは

当然なのです。エペソ2章でパウロは、異邦人はイスラエルの神、肉の生まれ、そしてトラー、契約、神の子らの生き方を知らない、神の子らの生き方から遠く離れていたと書いてある通りの状態だったからです。

 

今過越から7日間の種無しパンの週が終わり、シャブオートまでの間の7週間、”初穂”=復活の命に連なった事実を生きる事を

学ぶ強化週間の7週なのです。これは、神の永遠の教えであり

今日この日も神の永遠から同じ言葉、教えは何も変わらないのです。

ある国、ある文化、ある時代では全く適用されていないと言う

だけで神の言葉の中で語られている教えは永遠の真理なのです。

そして、ある教えは特定の人、例えば大祭司や、祭司に対して

男性に付けられる割礼は、女性にはされる事が無い教えですね。

 

でもそれは割礼が他の人には意味が無い事ではなく、男性が代表として受けて、神の子らである印が代々継承されて行くと言うものなのです。だから子孫が継承される男性臓器に記されている。

 

全人類に対しての教えの真理がその中で語られているのです。

だから聖書の中で割礼とは大事な教えの1つでもあるのです。

新しくされた人=以前の肉のままの生まれつきの自分は無割礼、それは神の目から全てを見る見方、考え方を知らない状態=

割礼の無い状態で表されています。

 

そして、割礼は、”義”とされている実態は神から

100%無償で与えられた事実を表してもいます。

生まれて8日目の男の赤ちゃんは自分の意志で割礼を受けているのではないからです。その子供の両親が神から言われた事を

信じて、受け継いで言われた通りを生きている。

神に言われ通りにするその信仰の継承、表明でもあるのです。

 

そして割礼を受けたと言う事は、その子は物心ついた時に

初めて気がつくものです。

自分が頼んでもないのに受け取っていた事実を知る。

恵と言うヘブライ語の言葉も同じ意味です。受けるに値する何もしていないのに、頼んでもないのに一方的に与えられたと言う

ものだからです。この教えは深いです。

 

神が与えて授けて下さった事実。自分の行いで努力して得たものでも、得ることが出来るものでもない、永遠から無償で与えられた贈り物です。だから神の言葉を生きて義とされると言う教えや

発想は神が教えている事を全く理解していないと言う思考から

出る教えなのです。

 

今現在神殿がエルサレムに存在しない時代では、実際に神殿祭司もいないし、神殿の中での儀式や教えも物理的に行う事は

出来ないです。でもその詳細は、神と人、人と人、人が

どんな状態でなければ本当の意味で神の前に神が意図した通りの関わり、繋がり、関係を育む事が出来ないのか、その教えが

その神殿での一連の儀式、行事、出来事で網羅されている

ものなのです。

人の考え付いた教えではない、神が人に教えている事は、

人をはるかに超えた”神”と言う存在、神の聖なる領域に人が

入る事、神との関係を持つと言う事は神の聖なる領域に入ると

言う事だからです。神の神聖と言うものは、人間が決して汚してはならない、損なってはならない、傷つけてはいけいない。

土足状態=肉の状態引きずったままでは神の家の中に入れない。

でも人はそれをしてしまっているのです。どうやって?

イスラエルの神のものではない、別物の教え、別物の様々な異物を持ち込んでしまっているのです。

拝んではならないものを拝み、汚れたものを祝う事でもある。

 

それは今の世の中でも分かる通り、神のデザインした人と人との関係、その中心が夫婦です。男性とは?女性とは?本当の意味で

人は未だまだ知らないものなのです。

誰かが語る男性とは女性とはと言う定義は聞いても、神が人に

伝えているものそれを本当には知ってはいないからです。

そして今世界は神の創造したデザインと人を破壊し続けて

暴走しています。

 

神がデザインした”婚姻”も人が定義し直し自由自在の外れた生き方を奨励しそれに反対する人が悪であり、差別している人とされる。その最初は、神の言葉を無視した事、命の木からだけ食べる

善悪の木の実はあなたの食べ物ではないと言われたのに、神の

言葉を遮り地を這うものの声に聞き入ったおかげでアダムとエバの関係が壊れた事、世界はそこから破壊に向かったのです。

 

人は神がデザイン、創造したものを破壊、汚し、台無しにし

傷つけているのです。神が伝えた意図通りにガードしない、

別物を作り出し続けているからなのです。

 

神が創造した記念日も人<ローマ>が破壊し別物に変形しました。神は神が創造されたオリジナル通りをガードし、治めるよう

エデンの園の中から、既に初めから教えているのです。

 

全創造物が全て揃い、人が最後に造られて初めて迎えた日、

第七日目を神と共に祝うように、神に属している子らの印として

与えたと神が言われたものなのです。

止まる=その理由は神が全ての創造を終えて止まられたからと

その日を”シャバット”=止まると名付けたのには理由があるからです。何も付け足すものがない”完了”を表す7日目。

 

神が造られた世界を神の意図通りに耕し=アボダ=礼拝と訳されている本当は、仕事、サービスと言う意味の言葉ですが、

神が言われた通りに行い、そして治める=シャモーする様にと

神が言われた事が書かれています。

 

聞くと言う言葉は”従う”と訳されていますが、ヘブライ語の本当の意味は単純に”聞く”と言う意味です。

治める=シャモーと言う言葉と、聞く=シャマーと言う言葉は

同じ文字です。発音聞いただけで共通の音が聞こえますね。

神の言われた教えを聞いたら、その通りにするのが当然であるから従うと訳されていますが、その言葉に沿って考えたら

人間は神の言われた言葉、教えではない、別の人が勝手に編み出した教えを聴き続けている、それこそ基本がずれた教えを

土台とした内容の信仰生活を生きているのです。そして神が

言われた事と違うことをすれば神がデザインしたアボダ=礼拝ではなく、別の教えの奴隷となってしまう、同じアボダと言う言葉が別の意味にひっくり返るのです。

 

これに気が付かない場合は、何?と思いますが、

神が指定した事とは違うことをする代償は死に値することが

初めから書かれています。

 

そして誤解してはならないのは、イエシュアが来たから今の時代はなんでもして良い恵の時、なんでもOk許されている時代と言う

これまた人が勝手に解釈して考えて作り出した教えを本気で信じ続ければ、本当に神の語る世界、実態とは別物の教えを生き続けてしまうのです。

 

聖書の事実に気が付く事を妨害しているのは、人の教えです。

その教えは、神の言葉は今は無用、2000年以降は以前の教えは無用になり、別の教えになったと言う聖書でも神の言葉でも

何でもない、ただの人間=西洋人が作った教えを土台にした

聖書解釈から考えている事をまず知らなければ始まらない。

人の解説する神の言葉をどの箇所でもどの言葉でもどの部分でも

否定する教えは神から出たものではない!!!と言う

神が語る事実にまず立たないと神の教えの真相は見えない!

それを知れば、聖書だけに戻れば、神の言葉が語る本当の真相が聖書の中からはっきり見えて来る。

 

逆に考えれば、人が作った教えは神の言葉とは異なるから

聖書に書かれている通りに考えると言う事をすれば、

詳細の全貌は分からなくても、神の言葉は永遠に同じ、神の教えは途中で変わらない。日本の憲法では関係ない教えでも、

神の子らには永遠に同じ神の教えと言う事が理解出来て

来るのです。

男性が受ける割礼で表される意味、真理は全ての人に対して

教えられている神の教えの真理でもあるのです。

だからクリスチャンの世界でも”割礼”と言う事に関して、

その意味は深くは分からなくても、多少は教えられるのを

聞くと思います。

 

神が人に伝えている事、それが誰かに対して代表で語られて

いる教えでも、その中身は100%全ての人に対する教え=真理であり今も有効なものなのです。

 

 

 

続く