レビ記の中に、誰かの犯している罪を知りながら見逃している事も罪であると書いてあります。愛とは、契約書=神の家に生きる
人の生きる姿であり、その中には、患部に直接切り込みを入れられる様な痛い教えもありますが、それは”腐敗”や”毒”を抱えたまま人は生きられないからです。
なんでも受け入れて容認し、なんでも見逃して、なかった事にするとは神の教える愛でもなんでもないのです。
そして今シャヴオートまでの日々、自分の中に潜んでいる
パン種に影響された生き方に気がつき、日々起動修正する
それを教えられて行く毎日です。
振り返ると、もっと早くトラー=神の教えを生きる事を知って
いたらと多くの人が同じ事を思います。シャバットをガードし
家族を大事にし、日々の生き方を神の教え通りに生きる。
そうしたらもっと子供達に、自分に、そして家族やパートナーと
健全な関係、生き方をする事が出来たのに。。。。
時間は戻って来ませんね。でも聖書を読むと、アヴラハムも
高齢になって神から色々教えられている、ヤコブも自分探しの
40年の後、本物の自分で生きる道を発見している。。。
そうすると気が付いた時から、そこからちゃんと生きれば良いと
分かるのです。過ぎた過去は戻らない、どうにもならないからです。日々振り返り、そして新しい人として悔いない生き方。
これからの生き方は今選択出来る余地が残されているから、
それが恵みの中に生きる=神の似姿、神の教えを生きれる恵みの
中に引き入れられた、それが本当の自由。神の義、神の性質を
選択し生きる自由の中に招き入れられたのです。
なんでもする自由が与えられたのだ、それが恵みの時代なんて
教えは、聖書が解説する教えでは無い別の教えなのです。
神の教えは永遠に変わらないのです。
人が神の言葉に手を加え、勝手な教えに変形したので
今の混乱の世界を招いたのです。
その事に気が付いたら神の言葉=教えを捨てよ!と言う考えや行動は完全に”まずい!” ”危険”とはっきり分かるはずです。
地の塩、世の光とは、イエシュアが教えたトラー=父の教え
モーセの五書=婚姻契約の中に書かれた愛の姿を生きる人達
である事が聖書には記されているのです。
続く
人が人の命をあやめていく。奴隷とする。エデンの生き方と
真逆な生き方に暴走している世界。それは全て神の教え、
トラーを捨てたからです。
幸せに暮らしていた家族がバラバラにされ、殺されてしまう。
ゲトーの収束





