神が人間の言葉を通して神の意図、考え、人間の生き方を
伝えています。人が神の言葉をどう解釈しようと、考えようと、神の考えは永遠に変わらず、永久固定されていて、人の受け取り方により、時代により、時と場合により神の言葉は変化するものでもないのです。
ローマ教の神学では、時と場合、人種により福音=神の言葉が
変わるのだと教え続けていますが、それは聖書では無く人が
作った肉の目から想像しているただの人間の教えです。
同じ神なのに人により考えている”神像”が違うのです。
神が七へんげ、何面相なのでは無いのです。
聖書に忠実な正確さで神が語る事を捉え、理解し、信じているのか、それとも人が語る所の誰かの考えの神像、教えを信じているのか?の違いがある訳です。
あなたの信じている神とあの人の信じている神は違うの?
の答えがそれだと思います。同じ神だけど、その人の中にある
神の真実が聖書とは異なる事を信じているかもと言う事です。
創造主との関係、人間の生きる性質、姿、エッセンスは、全て
100%”神が提示する契約の中”で表されているものです。
神の伝える教え、神のインストラクション=トラーに忠実、
ずれない、ブレない生き方をしてと神が預言者を通して、
イエシュアを通して教えているのです。
そしてイスラエルの神に属する人は”covenanted community"
神の契約の命を生きる事に繋がれた1つの家族=人達である事が書かれているのが聖書なのです。
人の教え、神学や、先入観を捨てて聖書を読めば、そこに書いてあるのは、ユダヤ人も異邦人も神の教え=トラーからかけ離れて
混ぜ物の教えを生きる危険をずっと繰り返した事が書かれているのです。
預言者の神からの託宣は、”神の教え、インストラクション=
トラーの生き方に戻れ!”が、神の言葉である事がクリアーに
書かれています。しかも悔改めるとは、神に戻ると言う事は、
神のトラーを生きることに戻ると言う意味であることなのに、
異邦人は神の言葉は廃れた、終わったと教えるのです。
救われたら一体どんな生き方をするの?の全貌が見えない。
一部しか教えられないからです。罪告白して、そして人に
救い主伝えて、互いに愛し合いましょう。
でもその神の子らの生きる姿、愛の詳細、内容がトラーを
学ばないので、ごっそり抜け落ちてそれぞれの想像で考える
ところを生きているのです。
だから辻褄が聖書と合わなくなるのです。
永遠と言いながら、途中で変わるなんて変だと普通に気が付かない、矛盾に矛盾と思わないほど、鈍くなっているのです。
誰が途中で変えたの?神が神の言葉を変更したとクリスチャンは疑いなく本気で信じているでしょう。聖書では無くて、人の教えを信じている事に全く気が付いていないからです。
トラーから遠く離れた異教徒異邦人なので、神の言葉の永遠性の事実が感覚的に本当に純粋に分からないのです。
イエシュアが教えている教えの内容の真意が全く伝わっていないのです。イエシュアがトラーを捨てた教えをしていると誤解しているからです。
でもよくよく読めば、全て聖書に書かれている事は、100%
トラーなのです。イエシュアは100%トラーを教えている事に
気が付かないのは、人の教えと言うおおい、トリック、魔術が
かけられているからです。
レビ記19:18「隣人を自分自身のように愛しなさい」。
神を愛し、隣人を愛すること。
申命記6:5
「あなたは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。
マタイ22:36−40でイエシュアが語られている”愛”が
全てのトラーの教えの中で一番大事だと言われました。
神と人を愛することの詳細は、トラーに書かれた”契約の愛の
内容”を実際に生きることを話しているのです。
だからトラーのどの箇所もこの2つに繋がっていると
教えているのに、その事実が耳に届かない、頭脳に響かないの
ではないでしょうか?トラーは廃れた、終わったと本気で信じるのでイエシュアが語られている意味が見えない。
トラーの内容が分からなければ愛を生きる詳細は、空想、感覚でしか分からないのです。
もし愛=アハヴァに繋がっていたら、それは残りのトラー、
神の教え全て、このアハヴァに繋がっている。
詰まり、神の教え=トラーを捨てよと言う教えは、アハヴァを
生きる詳細の1つ1つを捨てよと言う事なのです。
この愛に繋がる全ての教え、どの箇所も愛に属し、神のトラー
だからです。
神の教えのどの箇所を生きても、それは愛に繋がると
言っているのに、それをごっそり捨てよ!と言う教えは
どこから発生した教えなのでしょう?
エデンの園の生物の声でしょう。
私たちは、自分が見聞きして来た事、この異教徒の文化で
教えられて来た事を土台にして全てを考えています。
つい先日無宗教の友人が”この世の終わりだ〜”と恐れて言っていました。そうですよね。来る日も来る日も、恐怖を煽る報道が
されているし、騙しに次ぐ騙しが世界をかけめぐれば、不安を煽る。それが真実で無くとも自動的に恐怖感に陥れられてしまうからです。
ノストラダムスとか、ハロリンゼイ、又は未知との遭遇など
映画や人間が語る予言の世界の話を読んで、この世の終わりを
考えているのだと思います。世界の全てが爆発、吹き飛ぶ〜全部
粉々みんな霊になってふわふわ透明人間になる〜と。
でも、古代のヘブライの世界のユダヤ人が終わりの時とは
どう言う意味で捉えていたのか聖書に記されています。
翻訳よりオリジナルの方が意味が分かります。
古代ヘブライの世界のユダヤ人が理解していた通りに考えて見る。彼らがこれらの言葉を聞いたらどう理解するのか?
現代の宗教の教えを通さないで考えてみるのです。
詩篇78:1 わが民よ、わが教を聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。
聞きと言う言葉と、耳を傾けと言う言葉は、とても”強い”
強調、集中が求められている動作なのです。耳をダンボにでは無く体全体が耳=頭脳、完全集中して聞いて!わたしの子供達。
わたしの子供達=契約の中に入っている民、家族、みんな
聞いて!
わが教え、わが口の言葉=トラーを聞いてと書いてあるのです。
わが口=神の口から直接出た、言葉=トラーを聞いて!
78:2 わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、
なぞを語ろう。
ここで書いてある”たとえ”とは1世紀のイエシュアが語られた
たとえ話とは異なる意味で使われています。
箴言などで書かれている”たとえ”です。
いにしえ=ケダム=永遠の中から、神の中にある謎と書かれていますが神しか知り得ない事柄を人に伝えているから聞いて!
78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちがわれらに語り伝えたことである。
先に聞いて知っていた。ここはテトス1で語られている
太古から語り継がれた同じ福音=トラー=教えと繋がります。
先祖たち=父達=アブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの神が彼らユダヤ人の先祖に伝えたトラーである事はクリアーにヘ
ブライ人には分かる箇所です。異邦人にはぼんやり、なんとなく意味が伝わる程度の箇所だと思います。
知っていた=この言葉は、トラー=契約の中にある、親しい関係で知る、裏も表も知り尽くす夫婦間の間の知る=相手を知ると
言う意味での知ると言う言葉なのです。全部トラー=婚姻契約の
中で話している事をヘブライ人なら理解出来るのです。
しかも、強い強調形を伴う形態で書かれた”知る”と言う言葉なのです。
続く