終わりの時代に | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書をヘブライ語言語から、そして古代のユダヤ人達の耳に

イエシュアの言葉がどの様に聞こえ解釈していたのか?

現代人が異教徒思索概念と言うフィルターを通して聞こえる

聖書の中身ではなく、聖書に書かれているそのままオリジナルは

本当は何を伝えているのか?

 

ヘブライ語で書かれた聖書の中身の意味の元の元、そこまで

さかのぼると、巷で教えられて来た西洋色にコーテイング、色塗られて変形された聖書の解説や教えと、ヘブライの世界の文化の古代のユダヤ人達が理解している事が、全く異なる事が原典聖書の中に書かれている発見をします。ええ〜そう言う意味で書かれていたの?て事が山ほど無限にあるのです。翻訳では見えない。

西洋思想では見えない。

 

終わりの時と現代、異邦人が神学の教えを通して聞けば、

この世界が全部分解破壊され、ふわふわ皆が霊になる状態と言う様なハリウッド映画の中身を考えているのではないでしょうか。

”レフトビハインド”などと言う本を土台に造られた映画を見て

それが終わりの時の様子なのだと、ファンタジーの世界が聖書

の記述であると本気信じ込んでいる。

 

トラーを知らない異教の世界の異邦人が考え出した神学=教えを土台に造られた話、この世の終わりと言う意味をヘブライ聖書、

ヘブライの世界で語られる内容を知らないコンセプトで作った

シナリオ。

 

デイペンセーション神学をベースに語られる、描かれる、

異教神、ヘレニズム思想の教えを土台に解説される聖書の世界で、聖書は神は様々に分断、民族も二つに分断しているものだと考えている様に聖書では無い思想が、教えの中にふんだんに

入り込んで、それが聖書に書かれている事であると思い込んでいるのです。

 

どうして西洋神学が唱える教えが、聖書では無い思想だと分かるのか?ヘブライ語の言語で、ヘブライ思想で聖書を読めば、それが、異教文化、西洋の異物な教えである事が言語で明らかに表されて居ることが分かるからです。

 

聖書に書かれている内容、意味を元の意味ではなく、トラーを

知らない西洋人が編み出した教えを通して解説された内容を聞いている。でもヘブライ思想に戻して、書いてある通りを読めば

誰でも理解出来る。

日本の歌舞伎を、ハワイのフラダンサーが、タイ民族舞踊の人が

別の音楽をかけ、別のスタイルで踊る様な、別物に変身してしまうのです。歌舞伎を知らない人に、それが歌舞伎だよと言って

そうなのかと思ってしまう。オリジナルを知らないから。

 

映像や活字になれば、それが真実だと思うけれど、1世紀の

ユダヤ人がそれを見たり、聞いたりしたら一体これは何?何の事を話しているのか分からないのです。全く何の事を言っているのか通じない別世界の話なのです。

 

聖書は、未来の事より、”今ここ!”で生きる事が中心に書かれています。その生きる中心は、神のトラーなの!です。

それが神の造られた人間のデザインだからです。

マタイ13章のイエシュアのたとえ話は、ヒント的に

この世界の終わりに付いて語られていますが。

 

聖書に登場するユダヤ人達の耳には、”この世の終わり”と聞いたら、それがどう響いて理解、解釈しているのだろう?と言う事なのです。

現代の異教徒育ちの異邦人の頭脳、耳に聞こえる”この世の終わり”の内容とは、全く別物の中身、解説が原典聖書には書かれているのです。

 

現在は、不正が限りなくはびこり、悪者が思うがままにこの世界を勝手に支配し、弱い者から搾取し、自分の利益のためには、

人の命も関係無い、神の創造したデザインを破壊して好きな方向へ、それぞれが想いのままに、自分の価値基準を生きる。自分の目の好む関係、生き方、ライフスタイルを選ぶ、ノアの時代、

ソドムとゴモラ時代を違和感無く皆にサポートされながら

突き進む時代。

 

神の言葉など関係無い、やりたい放題の世の中になってしまったのです。神の美しいデザインが破壊され、ずれまみれに汚染

され、悪者が弱者を虐げ、正義が見えない世界。

その原因はトラーを捨てたから。

 

それがいつか終わる時が来るのです。最後は全ての人が神の前に集められ、それ以降は、神の正義=トラー=神の国の憲法で

全ての人が生きる事を世界がする、それが始まると書かれているのです。み教えはシオンから出てとある、み教え=神のトラーは

シオンから全世界へ流れ出ると言う意味が聖書に書かれている

神の言葉の意味なのです。

 

詩篇78に書かれていることをヘブライ語で理解すると顕著に見えます。この世の終わりとは何か?どんな事が起きるのか?

人々がどんな状態になっているのか?終わりの時代の印が

クリアーに書かれています。最後の世代と言う言葉です。

これは別の記事に書かないとならないものですが、今は横に置いておきます。

 

正しく世界を統治する、神の正義がエルサレムから世界へ流れて

統治する世界が来ると言う事なのです。正義、平和、神の

デザインを全ての人が生きる世界がやがて来る。ここに大きな

希望があるのです。

 

聖書のどの箇所を取ってもそれは全て、トラーを指して語って

いるのです。トラー、これを敢えて相応しく無い言葉、

”旧約聖書”と言う耳に馴染みのあるピンと来る言葉を使って

みます。

旧約聖書は終わり!と教えられそれを本気で信じているのでは

ないでしょうか?

旧約聖書と新約聖書の教えは別だと信じている場合が大半だと

思います。それは人が編み出した神学を信じて、聖書の神の

言葉、神の言葉は永遠、神は言葉であると言う言葉を読んだ

通りに信じていないからと言うのが本当の理由です。

 

自分の目で聖書で確かめればちゃんと書いてあるから

確認出来ます。神の言葉は永遠。神は何面相の神では無いのです。そう教えられてしまったから、そう信じているだけなのです。実は。教育とは人を正しい道にも誤りの道にも導くことが

出来るものなのです。だから教師は常に正しい情報を伝える事を

する意識、訓練を受けていなくてはならないのはそのためです。

 

創世記から黙示録まで、どの箇所1箇所、一文字も、神の中で

内部分裂、戦い、争いがある様な、互いに相反する教えなど

1つも書かれておらず、一貫して同じ事、同じテーマ、同じ

福音、同じイエシュアが書かれているのです。最初から最後

まで。

これは西洋宗教神学の教えを聞いて来た異邦人には

異物に聞こえる教えだと思います。いや異物、違和感よりか

直接的な反発を覚えるのです。古い悪い=呪いの縛りの律法と

教えられたから。だから旧約聖書と聞けば、即座に”律法に戻る

のか〜!”と反応して言うのです。

 

律法?では正しい本当の言葉に戻して言い換えて見れば良いのです。翻訳用語の律法ではなく、ヘブライ語の言葉=

”神の教え、インストラクション”に戻すのです。

”神の教え、インストラクションに戻るのか〜!”

真っ向から神に敵対する声が響く事に気がつくでしょう。

 

神の言葉に戻る事を阻止する力はどこから来ますか?

神の言葉を知ること生きる事を妨害する教えは誰がするのですか?神ですか?それとも人?サタン?

ちゃんとクリアーな頭脳で考え続けたら、何を言わされているのか信じているのかはっきりクリアーに気が付けます。

神の忠告、教えは、”寝ても覚めても何をしていても、神のトラーから思索を外すな”と言う事なのです。それが祈りの本当の意味

なのです。ヘブライ語では。だから絶えず祈れ=1日中生きる中で神の言葉を思い巡らし、神の前に生きてと。神の言葉の中で

神の言葉にぴったり合った思い巡らし、神との対話が”祈り

”テフィラーと書かれているのです。

 

しかも、聖書に登場する、預言者、使徒、イエシュア信者、

イエシュアもれなく全ての人が100%トラーを語っている事に

さえ、気がつかないほど、その人造偽仮説を信じてしまっているのです。トラーを原典聖書に書かれた通り、ヘブライ思索で

じっくり時間をかけて紐解き教えられ、学べば誰でも気が付ける嘘なのです。問題はトラーに書かれた内容を、書かれている意味通りに教えられない、学ぶ機会が無いと言う事なのです。

いや自分で聖書を読んで行くだけで、気が付けるのです。

 

”ベン ハー”の物語で語られている通り、真実を追い求めたら

必ず神はその答え、神に出会うことを分からせて下さると

約束されています。

”求めなさい、そうすれば、与えられます。探しなさいそうすれば見つかる”と。

 

人の教えにより、限りなく神の言葉を誤解して、人の教えを頭脳にインプットされてしまっているのです。

救い主、ジーザスを知る、罪赦されて、新しい命にされたと

信じた後、ではそれからどう生きるの?て内容が、ごっそり

抜けてしまったのです。トラーを教えられないからです。

新しい命=復活の命にされたと言いながら、ずっと罪人ですと

言い続けて生きる矛盾も。。。。人の教え。

 

続く