本物の神=創造主=救い主に出会って、アヴラハムを代表として
与えられた”義”=その根拠=イエシュアの永遠から用意された
復活の命の実態に移行した事実、”神の似姿に造られた人”を
生きる人生の旅路に初めて入った。
贖いとは、買い戻しと言う意味です。神が代価を払って偽の神に繋がれていた一人一人を買い戻してくださったのです。神の身元に引き寄せて下さった。出エジプト19:4−5
贖いは2000年前に初めて行われたのでは無く、永遠の中に
既に完了しているのです。そして救い=イエシュアは永遠から
存在しているから。
6日の間で、全て=全部の業が終了、完了して止まったと言う
言葉の中にその事実が表されてもいるのです。
イエシュアに出会った人達は誰でも辿る道ですね。
古代の人も現代でも。古代の人も同じイエシュアに出会って
いたのです。同じ、贖い、救い、助け、祝福、恵みをどの時代も
どの場所でも受けていたのです。だから1世紀の人達もトラー、預言書に書かれた同じイエシュアが来られる事を毎年神の祭りの時に待っていたのです。同じ救い=同じ実態=同じ神=
イシュア。イマヌエルの神=永遠から永遠に神は人の内側に住まう性質が神の名で表されています。
そして、イエシュアの命に繋がれたと言う事は、天の大家族の
一員とされたと言う事だと書かれています。イスラエルも異邦人も一緒、ミックスした群衆=それが聖書で語る神の大家族です。
天の大家族は、人類の始めから存在しているのです。
これを”翻訳トリック”で福音書以降には、別の言葉、聖書に
無い人間が仕立て上げた翻訳造語で、別の意味の言葉に書き換えられてしまっています。
言語では最初からある同じ言葉で表されているのです。
教会と言うのがその翻訳造語ですが、聖書にある元の言葉
”カハール”と言う元の言語を何も表さない別物の言葉=教会と言う造語なのです。便宜上使っていますが。本当はとても誤解を
招いている紛らわしい言葉なのです。
しかも、教会=異邦人のグループ、ユダヤ人=集会?
そんな事聖書に書いてありません。
聖書の途中、福音書以降に、神の家族を表す言葉を、別物の造語で表されてしまったので、ここで、別のグループが発生したと
言う錯覚を起こす意識をインプットされているのです。
カハール=呼び出された人々、神の呼び出しの声に応答した
人達=神の家族。それと相互的に同じ意味に繋がる言葉で使われるものが、”エダ”=証と言う言葉です。
これが、言語で表されている正しい神の家族を表す意味の言葉
なのです。教会とか、シナゴーゲとかそんな言葉は聖書には書いてはいないのです。そう私たちは神の証人と言いますよね。
それです。神の証人=エダ。
そのカハールのギリシャ語翻訳が”エクレシア”と言う言葉で
同じ意味、定義です。
だから教会と言う言葉を使われると2000年、昇天以降は
別のグループが出てきて、しかもその代表は異邦人であるなどと言う神学まで造られてしまい、異邦人が新しい契約を受け取った代表と誤解された教えを聴き続けていますが、そんな教えは
聖書、神の言葉の事実と全く異なり異物な教えなのです。
神が決めて選び出した、神の国を代表する、表す、神の言葉を
継承し生きるイスラエルを歴史の途中で異邦人には変更しない
からです。しかも、2000年以降、トラーとは別物の違う教えや、契約など与えられてもいないし、この世に存在もしないものなのです。どこにそんな書が存在しますか?聖書の中に書いてあるのは、全て100%トラーなのです。その事実に気がつけない
理由は1 人の教えが神の言葉を否定しているから 2 不適切で歪んだ翻訳や、聖書の翻訳言葉を誤解して解釈される人の
コメンタリーや解説を読んでそれが聖書だと信じている事。
聖書に登場して記述されている1世紀の信者はほとんどが
ユダヤ人です。そして、ヘブライの書、トラーに精通しない
エペソ2章を地で行く異邦人を神が選んで神の言葉を託す代表とはしない理由も書かれています。
”失われたイスラエルの羊の元だけに遣わされた。”とイエシュアが言われたでしょう。
まずトラーを知る人達を通して、世界へ、シオンから神の言葉=
トラーが伝えられて行かなければならないからです。
途中で神の言葉を変形される様な事態を避けるため。トラーを
本当に理解していない人達が勝手に神の言葉を適当に教えない
ために。トラーを知らないなら、トラーに書かれている本当の
意味を教える事は出来ないでしょう。
変形した教えはずっとどの時代にも自由にされていますが、
それらの教えは、神の言葉=トラーでは無いのです。
聖書では無い違う教え=これは歴史の中で、異邦人により行われてしまっていますが<ユダヤ人も異教の神々の教えを生きた事が書かれていますが>水面下に神の残りの民により神の言葉を
そのまま保存し生きる人達がどの時代にも置かれているのです。そうでなければ、ピュアで本当の神の言葉=トラー=福音は世界へ伝わる事など出来ないからです。
異邦人、ユダヤ人と言う人種、性別も関係無い、同じ神の民と
書かれています。それを”イスラエル”と言う地上での大家族の
代表として選ばれた国民の”代名詞”を使って表されているのです。もし救い主=イエシュアを信じるなら、イエシュアは
ユダヤ人である事を知らないとならないのです。この頭=
イエシュアを信じるもの全てはイエシュアに繋がっている事実に気が付いてみて下さい。エペソ2章にパウロが書いた通り。
詳しくは、”ベニ イスラエル”=イスラエルの息子達。
アヴラハムの”種”から神の国の民が出る。この種は人種だけでは無い、超自然の種=イエシュア=神の言葉を生きる人達でもあるのです。イスラエルの神の子らとは、神の定義では、
ルカ8:19 イザヤ56:8
”わたしを愛するものは、わたしの言葉=父の言葉=トラーを
愛しそれを生きる人”それが神の家族の姿、印であると、
イエシュアも宣言している通りなのです。
主よ主よと主の名を唱えながら、トラーを生きない人を
イエシュアは退けると言われたでしょう。
マタイ7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法=トラー無し、神の言葉に関係無いことを主の名を使ってもイエシュアと何の関係も無い、勝手に
やっているだけだから私はあなたと契約=神の言葉の中で結ばれる間柄には無いと言っているのです。>トラーの教えを生きないで働く=行動する者どもよ、行ってしまえ』。
ここで気が付かなくてはならない事があるのです。
救い主に出会った、救われた、新しい命に生まれ変わった。
罪赦されて新しい命を生きる旅路に入れて頂いた。
この救われたと言う事実は、どう言う事を意味していると思いますか?私達は神の家族〜と賛美歌でも歌うでしょう。聖書の言葉ですが、1つの家族は、1つの国、憲法、神の婚姻契約の中に加えられて生きる事に同意した人達であると言う事実があるのです。
結婚は両者の同意が必要でしょう。それに前提があるのです。
出エジプトと同じ、奴隷から贖い出された。その後にイスラエルと異邦人達は、神の前で神の国の婚姻契約の中に加わる条件を
言われたでしょう?そして出エジプトした人は”トラーを生きる事に同意しますと、天と地を証人に神の前で宣言したでしょう。
あなたは、災い、死または命?どれを選ぶか?
婚姻契約=神の教え、インストラクション、神の言う事=言葉を生きないなら死を意味する。でもそれも有りなのです。
拒否可能。あなたの家に嫁ぐ、でもあなたの教え通りを生きたくありませんと言うのも自由。義とされたのは、無条件。でもその義とされた人の実態を生きる、神の国の祝福を受け継ぐには
”条件”があると書いてあるのです。
神の教えを生きる事に同意しますか?しませんか?
する=神の家の中に加えられ、神との親しい関係、大いなる祝福の中に生きる。
しない=蚊帳の外、疎遠な関係になってしまう。
あなたはどちらを選びますか?とちゃんと書いてあるのです。
強制的ではないのです。よくクリスチャンも言うでしょう。
ロボットでは無いと。だから、神の国=家族になるには
これこれを生きる、神の家の文化、習わし、教えが
あるけれどそれに同意しますか?と書いてあるのが聖書なのです。とても誤解していませんか?と言う事なのです。
自由になった、トラーは終わった、自由に楽チン免罪符携えて
生きよう、罪犯したら、告白して〜許されるとそれくらいの
感覚。関係の世界に入れない、玄関口に留まったまま。
この事実=イエシュアを信じる者神の言葉=トラーを生きると
聖書の中では教えられているのに、トラーを否定して自分の判断で生きると言う教え=違うスタートラインに立って全てを教えられてしまっているのです。トラーを否定する=神の国を生きる
基準が吹き飛ぶ。
気が付いても、気が付かなくても、聖書は全て”婚姻契約”トラーにまつわる事、この婚姻契約に加えられた事、そしてこの婚姻契約を生きる事に同意した人達を、イスラエルの神の家族と
聖書=トラーでは定義しているのです。
続く