もし、聖書のどこの箇所からでも引用、教えるならば、気が付いていても、気が付いてなくてもそれは”トラー”を語っているのです。愛、許し、恵、祝福、贖いと福音書から語っても、それらの
実態の定義はトラーに書かれた詳細の事をイエシュアや使徒は
話しているのです。
2000年以降は、別種の教え、廃れた古い教え=旧約聖書=
律法を終わらせる為イエシュアが来て、新しい教え、父=厳しい
律法、子=律法を終わらせ、聖霊の時代に使徒2章以降はなったと言う教えを聞かされていますが、それは、神のエハッド=
1つの実態とは全く異なる”分裂、分断、分散”の神像を作り上げて語られた異教徒頭脳の思索から生まれた教えです。
使徒2章の祭りは、何と”トラー”をシナイ山で与えられた事を祝う永遠不変の神の記念日である事をクリスチャンは知らないと
思います。神の本当の記念日が何かを聖書から教えられないからです。人の作った記念日と神のオリジナル創造の記念日は異なるのです。
トラーが廃止された記念日だと思っているのではないでしょうか?神の永遠の記念日の性質は永遠に変わらないのです。
しかも、神の記念日の全ては福音を語っており、預言的祭りであり、その一つ一つはイエシュアそのものなのです。
福音書以降はトラーではない教えであると誤解していますが、
何を隠そう福音書〜黙示録はトラ−100%が語られているのです。父の言葉=シナイ山で文字で与えたトラー=モーセの五書=永遠。父の言葉を語るとイエシュアが言われた意味は、
”トラー”のみを語ると言う意味なのです。
私達は、ユダヤ人では無い、エペソ2章を地で生きる、ヘブライ語聖書、トラーに馴染みが全く無い西洋人教父、トラーを知らない人達の教えを通して聖書を教えられてしまったのです。
神の言葉=トラーを原典聖書に書いてある通りに教える事、
神の祭りを祝う事、トラーに書かれているライフスタイルを
生きる事をローマ帝国により禁じられ、その結果神の言葉を変えられてしまった聖書の教え=神の言葉を削除したり、
終わりとした教えを伝統の中で聞き続けてしまったのです。
ここに書かれている事を鵜呑みにして信じないで、自分で確かめる事を是非お薦めいたします。聖書の事実であればそれは真実であり、そうではなければそれは神の言葉では無いのです。
2000年に渡り教えられて来たことが嘘な訳ないさ!こんなに世界中が教えているし、信奉している!と言うどうしても拭えない意識があるのです。でも、真実の根拠は聖書=神の言葉だけであり、人の教えでは無いのです。
小さな子供が”私は神様に造られた。世界は神様が造られた”
と言う事と、世界で著名なノーベル賞級の学者が”進化論”=偶然に生物は発生したのであ〜ると言う、世界の大衆が支持する教えと、どちらが本当?真実なのでしょう?て言うことと同じです。
信奉されてきた年数、伝統、著名な大勢の教師が語るからと
言う理由は、神の前に何も関係ないのです。
そして聖書を人の教えを通さないで聖書を読み続ける事。
神は神を求める人に必ず真実を知らせてくださるからです。
周りを見渡して、その中で自分の教師として、ヘブライ語の
トラーをヘブライ思想で一つ一つ紐解いて裏も面も知り尽くして解説出来る人は皆無でした。他の皆さんも同じ状況だと思います。
ユダヤ人で、しかもイエシュア信者で、代々ヘブライ語聖書の
教師、ラビである家族や親戚を持つ人なんて、ユダヤ人以外いないでしょう。
頭脳明晰、人格的に素晴らしい人達であったとしても、聖書を
紐解く上で、問題になるのは、”ヘブライ原典に書かれたトラーを知らない”と言う単純な事なのです。どの分野、世界でも、
専門家が専門知識を知らないなんて事あり得ないのです。
それがお家元を追い出した代償です。迷い出た。
お家元を異教徒である世界が退け、トラーと神の契約を継続する
人達を抹消しようとして来た歴史があるのです。
でもその中で神は残りの民を保存し、そして次世代へ神の命を
継承する人達を置いてきたのです。そして異邦人でも、
同じ神の契約、神の言葉を愛し生きる人を神の民、家族と加えて
いる事も同時に聖書に記されています。
イザヤ 56:2
安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。
56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言っては
ならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、
56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。
56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。
ルカ8:19 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。
20 そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、
神の言葉=トラーを聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
人の教え、神学と言う強力パワフルなウインドウワイパーで常に常に神の言葉の真実を遮られてしまうので、聖書で、父の言葉、み言葉、御心、仰せ、戒めと書かれていたらそれは全て100%トラーの教えを語っていると言う、聖書を読む基本中の基本である知識が異邦人には生まれつき欠けているので、書かれている
言葉が表している内容、意味が見えていないのです。
もしトラーが終わりなら、詩篇も、箴言も預言書も、福音書〜
黙示録も、学ぶ、読む、聞く必要ありませんと言う事を言って
いるのです。それらの書はトラーそのものエッセンス、教え
だからです。あなたの住む家の、土台と柱を壊したら、あなたの
住む家も一緒に同時に崩壊しますと言うのと同じなのです。
1つに繋がり同じ要素。一番大事な部分を壊せと言う司令。
詩篇や、箴言は読みやすい、分かりやすいのでその箇所だけは
読むと言うのを聞きます。詩篇や箴言が”トラー”の知恵を語って
いる事に気が付いていますか?モーセの五書=トラー以降は
全部トラーを指して語っているのを知っていますか?
トラー=イエシュア=言葉。イエシュアが父の言葉を言った
意味は、モーセの五書です。それが異邦人には聖書の基本的
知識が欠けているので父が耳元で語りかける言葉くらいに思う
のですが、父の言葉=モーセの五書。父の言葉=イエシュアの言葉、教え。その全て100%はトラーなのです。聖書のどこも、
イエシュア、預言者全て、トラーを指して語っている事実に
目から鱗が落ちて気がつけば、シナイ山の中=神が天から降りて
シナイ山の雲の中に天が、神の栄光、神が実際に降りて来て、
神のトラーをモーセに託したあの同じ場所、領域に入るのです。
この箇所も同じエッセンス、トラーを引用しています。
詩篇、箴言、預言書、どの聖書箇所を引用しても、トラーを
語っているのです。
第一ペテロ3:9にも書かれています。これは、詩篇34章から
引用されている箇所です。
1ペテロ 3:9 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。<アヴラハムに与えられた契約の上に立っている事実を話しているのです。義とされた人は祝福を受け継ぐ生き方=神のトラーを生きる>
3:10 「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、
3:11 悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。
3:12 主の目は義人たちに注がれ、主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。
この第一1ペテロの箇所は詩篇34:12ー16から引用されている言葉です。翻訳で読むと言葉が多少違いますが、ヘブライ語で読めば一字一句ぴったり同じなのです。違いは無い。
義とされた人が生きる内容、実態、行動=全てトラーを指して
語っている事に気が付けますか?
詩篇、箴言は、トラーの実際の生き方、知恵を生きる内容を書いたものなのです。
詩篇、箴言、歴史書はトラーのエッセンス100%
預言書は、100%トラーに戻れ!と言う警告なのです。聖書の全てはトラー=父の言葉=イエシュアを指して語っているから
です。
もしトラーが呪い、仮の教え、廃れた教えなら、箴言も、詩篇も
預言書も同等に呪い、仮の教え、廃れた教えと言っているのと
同じ宣言なのです。これに気が付けば、聖書が1つに繋がって
ずっと同じこと、同じ福音を語っているいることが見えて来ます。福音=回復された本来の人間の生き方=神のデザイン通りの生き方=トラーに解説され書かれた詳細だからです。
福音書以降の使徒達の書簡は、全てトラー、預言書、諸書を
語っているのです。気まぐれに好きな箇所だけ、気に入った
受け入られる教えだけ取り出して、自由気ままな自分流の信仰を生きている人達の事が聖書に書かれているのではないのです。
続く