顔の無い神 人間の存在を超えた方がどの様に人にアプローチするのか | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今まで教えられた聖書に対する教え、神学や、人の編み出す解釈や解説事を一切聞かなかった、知らなかった状況のまっさらな

状態の頭脳に戻ってみる。

 

そして、異教神の国々に生きて、代々学んで来たイスラエルの神の語る世界とは全く異なる思想=ヘレニズム、ローマ、エジプト

人間思想=異教徒的思想で培われてしまった様々な思考回路、

物事の見方、捉え方、自分の思索を形成する土台となった

固定概念、それが頭の中にあると言うことを常に意識しながら

それらを消して聖書を読んでみる。

 

全然体験した事の無いヘブライの神の世界、古代ヘブライの

世界の聖書を、自分の固定概念を通して読んでいると言う事を

常に意識的に考えてみる。

 

どうしても先入観、固定概念で自分の頭の中に既にある考えに

絶えず照らし合わせ、引き寄せて聖書を読んでいるのだと

言う事をいつも念頭に入れながら、丁寧に神の語る言葉を探ってみると、気が付かなかった様々な違う事が書いてある発見をするのです。人造神学と言う強力なウインドウワイパーが、絶えず

神の言葉、トラーの真実を消そう否定せよと指令を発しながら

作動している事に気が付いて。

 

書いてあっても、単に素通りするようにスラスラ字面だけ追って聖書を読めば、気が付かない数々山ほどがあります。特に翻訳を読んでいるので元の意味の真相が見えないことも重なります。

その中でもこんな事こんな所に書いてあると言う未知の発見が

たくさんあるはずなのです。

 

違う方向から光を当てる。全然違う視点から事実を再確認する。

違う視点=神の目線、シナイ山の雲の中、360パノラマ、

世界の四隅=東西南北を、自分の肉の目ととは別の領域から、

神の領域から眺める再学習。

 

例えば、ヘレンケラーは偉人物語で、小学生にもよく知られる人ですが、その裏に居るヘレンケラーの成長を助けたサリバン先生が居ます。海外では、ヘレンケラーよりサリバン先生の偉業を

取り上げられます。でももっとその先、裏には、サリヴァン先生が出会った孤児院に居た清掃に携わる無名のおじさん。

この方の優しい励ましや、関わり合いでサリヴァン先生は神に

出会い、ヘレンケラーの様な荒くれの盲目の子供を指導する事が出来たわけです。

 

プロテスタントでは英雄の存在であるルターも、ユダヤ人の

世界では、ヒットラーが、ホロコーストを招く確信に至る、

太鼓判を押す手助けとなってしまった教科書をルターが晩年に

書き、最後は反ユダヤ人主義に翻り、ユダヤ人殺戮は神のみ旨であるとまでルターは宣言し、又神のトラー=神の言葉を否定する事を教えたとんでもない人と認識されている。

 

1つの事柄を平面に1点ばりに見ると全体像が見えない事、

違う方向から物事を見直すと全然違う世界がある事の発見が

ある。自分の狭い考え=固定概念と言う箱の中だけで

いつも考えていると言う事に気が付く事は、違う視点、目線、

神の目から見る視点に軌道修正する大事な一歩だと思うのです。

 

聖書って何が書いてあるのか?て簡単にざっくり解説すると

したら、創造主である神が、人間=被造物である者との

”契約”の中での契り、関係を結んでいる事。

その契約の中にある人達に対しての、神が語る天の国籍の人達の生き方、コミュニテイ、大家族全体としての生き方。

エデンの園を飛び出して、修復に至る全てのプロセス、

それは人間だけではなく、神の造られた全ての創造物も含めて。

神の教えから外れたら危険なので、警告など。

それらが書いてあるのです。

ヘブライ語の聖書のタイトルは翻訳と異なる名前が付けられています。

モーセの五書のタイトルと書かれている内容の要約は

 

1 創世記 ベルシート<初めに>契約の関係の始まり

2 出エジプト シュモット<名前>歴史初文字で記され

  書かれた契約書

3 レビ記 ヴァイクラー<そして彼が呼び出した>

  契約を維持する

4 民数記 バ ミッドヴァ<荒野にて>契約の中にある家族の

  コミュニテイ

5 申命記 デヴァリム<言葉>約束の地に入る前の

  契約再更新の記録

 

それ以降の預言書は、このトラーから外れた人達への警告。

テシュヴァー=悔い改めとは、契約の命を生きる、トラーの

ライフスタイルに戻れ!と言う警告が預言書なのです。

そして、諸書は、トラーを実際生活の中で生きる、知恵、教え、

励まし、など。実践が書いてある。福音書〜黙示録は、使徒達が

書いた、トラー、預言書の短いコメンタリーの書簡なのです。

100%全部トラーなのです。

 

この申命記は古代中近東で国同士、王と家来などが結ぶ条約の

書かれ方、契約書そっくりそのままの形態で書き記されています。それで、この神の言葉=聖書が契約書であり、婚姻契約で

ある事が明らかに分かる契約書なのです。なぜなら全てが

婚姻契約用語を用いて記されているからです。

だから、愛とか、裏切るとか、不貞、姦淫、裏切り、契約を破る、別の主人に行ってしまったなどなどの言葉が書かれている

のです。全ては婚姻関係にまつわる用語で綴られているのです。不動産売買契約書、労働契約書ならそんな言葉書かれていないでしょう。福音書以降に書かれた愛、裏切る、不貞、様々な用語、

寛容、許し、恵、親切、忍耐 etc etc 全ての言葉は、トラーの言葉、意味、内容とぴったり同じなのです。なぜなら福音書=黙示録はトラーを語っているから。別の教えや別の福音、別の契約の

話など福音書以降には書かれていないのです。この事実、真実に

目が開かれたら、聖書が1つである事が見える扉の鍵が開きます。

 

顔のない神を、人がどう知るのでしょう?姿形も見えないし、

声も聞こえませんよね。五感で感じない、手に取って実感出来る存在では無い神。

でも考えてみると、実際に目の前に居る人と関わっても、相手が

見えない、相手の中身が見えない、繋がれない。繋がりや絆を

実感、体験出来ない、関わりが生まれない、育めない。

言われている言葉が自分の中に入らないクリックしないと言う

事があるのです。

 

同時に目み見えない神を深く実感する事は、肉の五感だけで

感じる事ではないそれを超えた別の領域、自分の頭脳=内側で

受け止める深い揺るがない納得、確信です。

だから、目に見えない神が居る!と気が付けたのでしょう。

頭脳の中にある脳回路の枝と枝が繋がり、真実を見分ける、

キャッチ出来たからです。それが木の枝や、良い地と言う言葉でも聖書の中に教えられ、表されています。

直接目の前に神さまが現れても、幽霊かもって思うでしょう。

 

今空の上に神さまが現れてもそれが神だと気が付けないと

思います。イエシュアが1世紀に地上に来た時、目の前に居る

方が神、救い主と気が付けなかった人達と同じ。見なくて

信じるものは幸いの世界が語られている。五感を超えた納得

頭脳で納得する。神の目から見る視線、視点、頭脳=良い地とは

ヘブライ語で”理解する頭脳”と表現されているのです。

 

この状態があれば、神の言葉=種が撒かれて適切なガード、耕しをした、生ける水の辺り=イエシュア=神の言葉の中に浸り

続ければ、必ず根が出、芽が出、幹、枝が成長し御霊の実を

たわわにならせるからです。

 

神の言葉=トラーは、神の言葉とは、神ご自身が人間に伝える

生きる事、神は誰、人とは誰、神が造られたご自分の民、人間の本当のアイデンテイテイあなたは神にどう造られているのか?

あなたは誰か?と言う詳細、教えが記されたものです。

天の国に属する人達は、どう言う生き方をするのか?

神自身が書いた天の国の文化、生き方です。

 

 

続く