言葉を書くと言う作業は、天に属するものです。
なぜなら、神は言葉であるとあります。言葉=神。言葉=神の
性質、エッセンスです。世界の全ては神の言葉により造られ、
出現した。不思議。人間が作るどんなものも、それを表現するとしたら全部言葉です。
数字で、文字で、設計図で、絵で、音符で、記号で表現される。
神の国の特徴を、神の表現する言葉で、もちろん人間の言語を
通してですが、それも神が造られたのです。そして書くと言う事
表現とはアートで表しているものでもあるのです。
神の美、アートが言葉により現れ出る。
人間と動物の違いは、これですね。言葉。書く事が出来る。
表現し伝達出来る。
中世のヨーロッパは文盲の世界でした。聖書ももちろん、
原典聖書=ヘブライ語聖書では無い世界です。翻訳聖書を西洋人教父の神学を通して伝えられただけです。
日本に入ってきたザビエルの教えと同じ様に、聖書ではない
教えも同時に教えられて、それが聖書に書いてある事実では
無いと気が付けない状態が続いたのです。
確かめる根拠、聖書、原典聖書が無いからです。
導き手がいなくてどうして知り得ることが出来るだろうと
ある通りです。
でもその時代にも唯一ユダヤ人だけは、文字で書き記す事が
出来て、読み、神の言葉を原典聖書=ヘブライの書から日々学び
続けて現代に至るのです。そんな民族世界に他に居ないでしょう。
どの国に住んでいても、歴史の初めから神の言葉を忠実に書き記し、継続、継承し続けて生きる民族。不思議です。考えたら。
神業。そして、1世紀にイスラエルに来られたイエシュア、
再び世界の真ん中、エルサレム=イスラエルにイエシュアが
戻られる。イエシュアはユダヤ人。
神がそう計画されたらそうなる。そしてユダヤ人殺戮は人間が
企てても失敗に終わる理由は、神の計画だからです。
それは世界の民族に繋がる事でもあるのです。
アヴラハムを選び出した理由は、アヴラハム、全世界の民族の父を通して、全世界の民族へ福音、義とされている事実と祝福を
与えるためであると書かれています。神の祝福を継承する代表者を選んだから。
文字で聖書を記す事を神が託したのもユダヤ人です。
歴史の途中で神の言葉を人の手で変形されては、世界へ神の言葉で表される神の国、神の語る神とは、人の生き方、修復、福音の真実が伝わらなくなるからです。
神の国のヴァリュー=価値基準、情報、贖われた民の生き方を
伝える方法=言葉で書き記す事です。
たった一つの民族を選び出し、その任務を遂行させたのです。
異邦人は神の言葉は途中で廃れた、終わった、意味ない、呪いと
教えているでしょう。
書く読むと言う事は、本当に貴重な行為なのです。
文字で書いた神の言葉を受ける事、書くと言う行為を当然のごとく取り扱っていますが、これは貴重なものなのです。
出エジプト24:12 ときに主はモーセに言われた、「山に登り、
ここで書かれている戒め=ミツヴァは単数形です。
神の言葉はたくさん書かれていますが1つの繋がったどこも切り離せない教えだからです。分裂した別々の教えでは無くて全部
繋がって1つの神の言葉だからそう書いてあるのです。
このシナイ山で与えられた神のトラーをイエシュアが地上で
教えたのです。この神の言葉=仰せ、いましめを、クリスチャンの世界の中ではこう教えているのです。
”人生の重荷そのものの神の律法です。”と。
神の言葉は何より慕わしく、人に命を与えるものと言う意識とは
全く別世界の感覚、意識、認識なのです。
神の言葉や教えに対して、律法という相応しく無い言葉で表し、麗しい神の言葉に対して超えることの出来ない大きな溝、隔たりの壁、意識を作っています。
美しい音楽や景色に対して、あたかも見苦しい、醜いものであると言う捉え方をしているのと同じ事が起きます。神の言葉のどの一言の言葉でも、それらを美しい、麗しい、命を与えるものと
認識させない、出来ないように、意識、思索に人の教えと言う
ロックがかけられてしまっているのです。
誤解、偏見は、神の言葉に対して歪んだ意識を生み出すのです。
それは、聖書と一貫した教えでは無いし聖書にそぐわない教え
なのです。人が作った、ただの人が言い出した教えを伝統で継承しているのです。では神の与えた永遠の神の言葉=教えに
対して、神は本当は何と言われましたか?
申命記30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、
続く