義、きよきに至る実を結んでいるとは、神のトラー=神の教え、インストラクション、指導通り、神が言われる言葉通りを生きる結果出てくる御霊の実であるのです。
ローマ6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、
わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきて=トラーを生きることを
よろこび、昼も夜もそのおきて=トラーを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると
実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。<神を愛する人は、神の言葉=トラーを愛し、考えるだけでは無く、実際に神の言葉を生きるから、御霊の実を結ぶ。
そして神の言葉を生きる人は、祝福される。御霊の実がたわわになる事=祝福=神のエッセンス、栄光を地上で映し出して生きるから>
神の言葉は、神の性質そのもの。だから、頭脳に割礼を受けた
義とされた状態をそのまま神の言葉に根付いて生きる人は、
周りにも祝福をもたらす生き方、存在になる。
異邦人の耳には、祝福=ご利益と直接言わないけど、言わないけど祝福=お恵みもらう意識、何かを得る意識で考える。
人の解説では、救われた事=後の事は自動的、又は聖霊が
たくさん内側に降って来たら自分が変化し、御霊の実がなるがごとく語りますが、聖書に書いてあるのは、”作物”を表しているのと同じく、初穂=イエシュアの命に繋がった人は、日々=神の口から出る1つ1つの言葉により生きるとイエシュアも言われた様に=神の言葉に根付く、生ける水=イエシュアの中に浸り植わるごとくの日々の生き方です。
良い地に種を植え、虫が付かないように、日照りに合わないように、水不足にならないように絶え間なく耕し、ケアし、実りを
待つ事で例えられている通り、神の言葉を生きる中で
初めて成長して、成熟=御霊の実を季節ごとになる木になる。
でも宗教の教えは、印、不思議、現象、奇跡を追い求めると書いてある、その通りだと思います。1980−2000年代に
アメリカやカナダで遭遇、見た、様々なパフォーマンスの世界、イエシュアの性質、神の言葉を正確に紐解き教える世界とは
遠くかけ離れた、イエシュアの名を只々利用しただけの別物の
教え=霊だったと分かるものがたくさんあります。ジーザス、
イエスさまと言うだけでそれだけで、引っかかってしまうけど、
主よ主よと言いながら、”あなたを知らない”と言う生き方も
出来る警告がイエシュアの口からも語られています。
インスタントが良い!熟成なんて面倒臭い。すぐ即座に願望を
手に入れたい!待てない!忍耐が無い。。。。
ここが盲点でもあると思います。なぜなら救われた人は、
神の言葉を生きるのは恵の無い生き方と教えられるからです。
では一体救われた人は、実際日々の生活で何をどう生きるの?
本来の人間の生き方は何?イエシュアの語られた人の生き方とは何を指して、何を基準にして教えているのでしょう?と言う事
です。WWJDと唱えてもその生きる中身は?と言われたら漠然としているでしょう。
ただ一言罪を告白する生き方だけを考えているとしたら、
それは聖書とはだいぶかけ離れた教えです。又は救われた人は
信仰とは、宗教組織やあるグループに入り、伝道や奉仕活動を
熱心に日々する事、それが神の言われている生き方なのだと教えられている。これは、紐解いて考えないと大きな誤解があるので、今は脇に置きます。
自分の置かれた場所で、状況で、置かれた隣人の中で、神に与えられた自分の命=神の子らしく生きる。本当はシンプル。神への礼拝とは聖書の本当の意味は、そんな何々あれこれ活動する事ではなく、関係の世界。創造主である神が私たちを求めている。
神が与える用意してくださった神との素晴らしい関係の世界を
体験する事へ私達を招いていて下さる、それなのです。だから
偶像礼拝の世界、ギヴアンドテイク意識、たくさん宝、お金
お恵頂戴、それが自分の願望にそぐわない量や内容だったら
不満。”わたしの恵みはあなたには十分。あるもので満足せよ”
それでしょう。誰もわたしを求めていない=関係の世界に入る事なんて考えてないと聖書に書いてあります。神との関係?
それがどれほど素晴らしいか分からないからです。
パウロが神を知る、神との関係の中を体験する、知る世界が
あまりにも素晴らしすぎると味わった結果、全てチリあくたに
見える様になって、こんな事を言っているのです。
ピリピ 3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っている
ことのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思って
います。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
詩篇27。ダビデもその素晴らしさを味わったのでしょう。
預言者が最後は殺害されてもその任務を果たしたのは、
神の現実の素晴らしさを内側に体験、知っていた、持っていたからでしょう。
ずれを続けたら、自分への他者への破壊です。罪告白して次の日も同じ生き方繰り返していたら、元の黙阿弥。何の変化も無いのは当然です。失望しますよね。どうして抜け出れないのだろうと。抜け出るための、神の差し出す方法=プロトコール、トラーに書かれた詳細を知らないからです。神の言葉=教え、インストラクションを捨てたら、自分空想で堂々巡りになると書いてある通りのことが起きるのは当然。マニュアル捨てて、自分で
新しい電子機器操作しても、操作出来る内容、範囲が限られる。
罪の告白とは本当に一部の事です。しかも、神の前で神の目が
見ているように自分の事を認識する理由は?
悔い改めの本当の理由は聖書では何と言っているでしょうか?
”癒されるため!”それが理由です。癒されるため。
詰まり神の前に罪を隠していたら苦しくなる。人は暗闇で同時に光を浴びながら生きれない。それは人の性質では無いからです。
ダビデの告白でも分かる、詩篇38。いや人間なら誰でも
分かる、経験している事。だから洗いざらい神の前に全部
話したい。
それが”内臓”で表されているものでもあるのです。
これは深い学びなので今は簡単には書けない内容ですが。
人は皆神の似姿に造られていると書いてあります。
神の存在を今知らない人でも、もし人が神の言葉、意図通りを
生きたらトーヴの生き方をする事になるのです。だから、親切や寛容や許しなど、どんな事でも人が神の性質らしく生きる時、
私達もそれが分かるでしょう。満足感がある。人を癒すし、
励ますし、力、勇気、命が湧き出る。気がつかなくても、口で
説明出来なくても、実際に神の言葉で表されている内容、
性質は人にはトーヴな生き方なのです。
神を知らなくてもトーヴな生き方をする人。神を知っていても
神の子らしく無い言動、行動、生き方をしている人もいる
でしょう。
知らないまま神の言葉を生きている人は大勢居るでしょう。
その生き方の詳細がどこから来ているのか分からなくても。
人の心の中を神は知っているし、見ている。神でも無い、人が
人を外側から見て、誰かの事をああだこうだ、どうしてこんな事するのだろう?理解不能と判定、評価を下す事は出来ないのです。それが、マタイ5章にある兄弟をバカと言う者はの教えと同じです。バカと言うのは、人を”バカ”にすると言う意味ではなく、被造物である人間が、創造主の神の座に座り、神の造られた人の事を、人の内側の事細かな事に対して,あれこれと神が見る通りに、見えも、理解も出来ない人間なのに、評価、判定、仕分けを神のごとくに下す事を言っているのです。
これは、荒野の12部族が神の”移動式ミシュカン”を通して、
ぐるっと宿営した意味にも繋がります。
”神の見ている通りを、神の目を通してお互いを、神を見る”
学習。肉の目から人を見ない、判定しない事。
これは1世紀のヘブライ人の世界の言い回しや文化、社会を知らないと”バカ”にする事で、地獄=ゲヒノムの谷=エルサレムに
ある、身元の無い人や囚人の火葬場、ゴミ捨て場に行く?
これを地獄と訳していますが、元の意味=ヘブライ語の意味では”ゲヒノムの谷”と言う今もエルサレムに実在する場所なのです。たくさんの誤解をして聖書を読んでいることに元の言語、文化の設定の中に戻ると聖書が語る真相が見えて来ます。
書かれている、言われている意味通りが分からないと、聖書=
イエシュアの教えている意図、意味が見えないです。
詩篇1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は
滅びる。
続く
奴隷=肉の目から世界の全てを見たその脳回路離脱の旅。
荒野で神の言葉、声、教えだけを聞いて生きる訓練の旅。
互いを神の目からだけ見る。神が定義する伝える”本物の人”の
姿をお互いの中に見る。絵画的教え。神の栄光、臨在が
宿営の中心にあり、お互いが向かい合い神の栄光を通して
お互いの存在を知る、見る訓練。