ローマ6章 聖書に書いてある教えのすべては父の言葉 トラー | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ 6:14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

 

律法の下=律法=ノモス=罪の法則の下には居ないと書いてあるのです。これを聞いて、律法の下=今までは神の厳しい、呪いの教えに縛られていたのを、イエシュアが来て解放されたと教えますが、もう破茶滅茶な非聖書的教えなのです。

父の言葉=モーセの五書=呪いで縛る。イエシュア=トラー=

父の言葉=モーセの五書=婚姻契約=神のデザイン通りの人間の生き方なのに、全部辻褄が合わなくなります。

 

神が神の言葉で人を縛り付けていた?どう言う思考回路か。

異教の神々の教えに根付いた異教徒思考回路、発想なのです。

 

神の言葉=トラーを生きる事の下に居ないと言う誤解の解釈をする教えを聞き続けているので、とんだ誤訳、意味違いの内容を信じてしまっている箇所でもあるのです。

 

イエシュアが昇天された後、トラー=神の永遠の言葉、教えは

破棄された、終わった、変化した、廃止されたのだと、そんな事聖書のどこに書いてあるのでしょうか?その教えの根拠聖書に

無いものですし、聖書の語る福音に真っ向から反しています。

 

もしも神の言葉が終わりなら、全部終わりだからです。

反聖書的教えであり、人の編み出した神学、架空の仮説。

余りにも長い年月伝統で語り継がれた教えが固く固く人の意識の中に染み込んでいるので、神の言葉の真実<種>が固い大地に

侵入、貫通、植わる事がない。

 

このローマ6章の様な箇所を誤解して読んで、神学の教えを土台に翻訳聖書を読んでそう考えて、解釈、解説している著名な教師や学者達の教えを聞いているので、それが聖書なのだと思って

いるだけなのです。

聖書では無い教えを聖書であると、聖書から満遍なく書いてある

通りを探り、調べ、注意深く確かめないままで、人の教えを鵜呑みにしたまま疑いなく受け入れているだけなのです。

 

学校の科学の先生に進化論を文部省指定認定全日本国民が疑い

無く信頼して仰ぐ教科書から教えられるから、進化論=真実と

信じているのと全く同質の誤解なのです。嘘、偽り、不真実は

世界にはいくらでもあるでしょう。エデンの園の騙しの根元は、神の言葉を曲げる、歪める事だった事、真実を歪める覆い隠す教えはこの世に蔓延しているものです。聖書を語る世界にも。

 

6:15 それでは、どうなのか。律法の下<罪の法則の下>にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。

 

恵の下=神の贖い、命=神のエッセンス=トラーを生きれる

命=義へ移行した。義とされた人は、神のエッセンス=

イエシュア=トラーを生きれるようになったと書かれている

のです。申命記30:14と同じです。

 

罪の律法=罪の法則に縛られている奴隷状態から贖い出され

買い戻されたからです。イエシュアが永遠から支払った代価に

より罪の奴隷から切り離されて、本物の神に繋がれた。

罪の法則の下にではなく、恵の下にいるのだから、罪を犯すべきでは無い。それは神の性質=義とされた人のする事ではない。

 

神の言葉=性質からずれた生き方、罪を犯す事を選択して生きるのは、神の似姿=義とされている人のエッセンスにそぐわない、

相応しく無い、あなたの本来の性質とはマッチしない生き方ですよ、それはあなたでは無いよとパウロは解説しているのでしょう。

 

6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる

従順の僕ともなるのである。

 

不服従=別の性質に聞き入り生きる=僕=奴隷。選択なのです。

命か災い、呪い、死を選択するか、あなたはどちら?と。

 

6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、

 

罪の僕=神を知らず死んだ人で生きていた時は、偽の教え、基準を学習した偽物の自分で、神の性質とはズレた事を学んでしまったので、それが自分の習慣、一部となっていた。でも今は、

その死んだ人=イエシュアと共に葬られた事実を信仰により受け入れ、以前の肉性質が現れるのは、記憶の中で繰り返し行った慣れた習慣だから、ズレた傾向に生きることに引っ張られるけど、

それは自分じゃ無い!から”NO"私は罪の奴隷では無く!神に

買い戻された神の子であると宣言し、サタンの誘い、促し=

荒くれ者として行動したくなる誘惑に決別、拒否する。

これには絶えざる注意を払う事と、選択、決意が必要!そして

伝えられた教の基準=トラー!に聞く=聞いて神の言葉を選択して言われた通りをする!と書いてあるのです。

 

服従とは、フパコウ=ヘブライ語ではシャマー=神の言葉を

言われた通りに聞く、聞いて理解すれば言われた通りにする

言う意味だから、服従と言う翻訳用語を使っているのです。

頭脳丸ごと駆使して、神の言葉、教え=トラーを聞いてと。

 

6:18 罪から解放され、義の僕となった。

<以前は罪の奴隷、現在は義の僕>僕=義に完全に支配される

状態。義の僕ってどう言う意味だと思いますか?

エレミヤ31:31にもイエシュアの渡される夜の過越の晩餐の儀式でイエシュアが言われた”新しく更新される同じ契約”にも繋がります。

頭脳に割礼がされ、新しくされた人、神の目線と同じ場所から見る事を習得した成人達が神の言葉=エッセンスをそのまま生きる

状態になる。義の僕。完全に神=聖霊に支配されている人は、

神のトラーをそのままを生きれると書いてある。

 

栄光から栄光へわたしを変えるとか、神の栄光が人から

現れる状態とはどう言う状態であると聖書に書かれているのでしょうか?

神の言葉=イエシュア=エッセンス=神のトラーを実際に

割礼された頭脳に刻まれた人=義の実態を受けた人が、

神のトラー=義の実態の詳細を、実際に行動に移して生きる時に現れると書かれているのです。

エレミヤ31:34

人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至る

まで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。

わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

 

”わたしを知る”と書いてある意味は、わたし=神を神の言葉=

トラーに書かれた内容を婚姻関係の究極の親しさの中で

”裏も面も体験的に知り尽くしている”の知る=ヤダと言う言葉なのです。わたし=父=父の言葉=モーセの五書にある詳細。

 

ローマ6:19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や

自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。

 

罪の僕=律法=ノモス=罪の法則の下にあった時の状態が

書いてあるのです。下矢印

 6:20 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。

義とはトラーに書いてある詳細、内容、定義なのです。そうです。イエシュアに出会うまで”トラー”とは縁が無い者。エペソ2章にも繋がるでしょう。福音書〜黙示録=トラーでは無い別の教え、別の契約と言う教えを聞くから、神の言葉=聖書が1つに繋がらないのです。救われた異邦人は、

トラーを聞いているのに、イエシュアの教えられている事が

トラーであるとは気が付かないし、同時に人が作った神学によりトラーを否定、曲げた教えを聞いてしまっているのです。

 

6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、

今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、

死である。<死、物理的にも、そして神と人から、本来神が

デザインした喜びの親しい関係=エデンから隔たりの関係に

飛び出す状態>

6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、

きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。

 

義、きよきに至る実を結んでいるとは、神のトラー=神の教え、インストラクション、指導通り、神が言われる通りを生きる結果

霊の実であるのです。

6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたし

たちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

 

 

続く