神の言葉を知る事は天の国の生き方を知る事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイの1:1の家系図の冒頭に書かれた一言を読んだだけで、

何が書かれているのか見えるユダヤ人。ベン ダヴィー=ダビデの息子と聞いたら、救い主の家系図と分かる様に、

神=言葉、仰せ、定め、知恵、さとし、いましめ、父の言葉などetc etc etc それらの言葉を聞いたら、即座にトラーを指して

話している事を、誰でも皆理解している世界、聖書の世界=

ユダヤ人の世界、イエシュアが来られた世界。

 

イスラエルの失われた羊の所だけに遣わされたとイエシュアが

言われた理由は、トラー=父の言葉を知る民族、神が地上での

トラーを運ぶ代表として選ばれた人達の所に来た。

 

その理由は?えこひいき?他の民族は疎外?いいえ、たった一つの国民、国=ユダヤ人を選び出して、彼らを通して世界へ神の

言葉=トラー=福音が伝わるためと神が決めたからです。

トラーを知らない異教徒の所にいきなり行っても無駄でしょう。

通じない。時間が足りない。理由はそれだけでは無い、もっと

深い意味があるのですが。

アヴラハムが全世界の民族の父=義とされている事実を

与えられたのは、全世界の民族がアヴラハムを通して同じ祝福を

与えられるためと書いてあるからです。祝福独り占めにするためでは無い。家族の長が全世界の家族のメンバーに教え、祝福を

分け与えるため。

 

神の言葉をそっくりそのまま保存し、ガードし、神の言葉=

トラー=聖書を一字一句あい違えずに正確に忠実に書き記し、

瞳のごとく神の言葉をガードする、神の国の文化、天の国の生き方を生き続ける国民、そして1つの国=イスラエルが地上で

天の国をそっくり映し出して生きる一つの国が必要だったから。誰も神のトラー、神の教え、神の記念日を歴史の最初から国全体、国民全部が生きる、祝う国は世界のどこにも存在しないのには、理由があるからです。エルサレムに引き寄せられる。

一つ神、一つ国、一つの国民=神の国の民が神の中に世界の四隅から1つ所、1つ頭脳、1つ神、1つ教えに引き寄せられる絵画的教えでもあるでしょう。エルサレムに再びイエシュアは戻られるのですから!ローマでは無い。

神の国の子らの姿を生きる、そのミッションに、イスラエルは

だいぶ失敗して来ましたが。

 

10人の花嫁のたとえ話でも10、5と言う数字を聞けば、

即座に10の言葉<十戒と訳されている>、5=モーセの五書=トラーとすぐに頭に浮かぶ、理解出来る人達に、イエシュアが

語られているのです。イエシュアが何を話しているのか、

伝えているのか打てば響くようにすぐ分かる。

 

でも異邦人は、生まれも育ちもトラーに馴染みが無いので、

神の言葉が教えている内容を知らない、分からないので、

その様な発想が出来ないのです。当然なのです。

イギリス人が、日本の文化を知らないのと同じ。

 

誰かが、神の最初の部分の大半の言葉は律法なのだ、

終わった呪いの一時的な仮の教え、仮の契約で異邦人には

全く関係無い、生きなくて良いもの、いや神のトラーを生きるのは恵みを無駄にする生き方だから、トラーを生きることを禁じられていると言う教えを聞けば、疑いもなくそれが聖書であると

異邦人だから信じてしまうのです。トラーを知らなければ、

そう考える、それが異邦人だから。

 

律法などと言う言葉は、聖書では神の言葉を指して使われる

言葉でも無いのに。律法?=神の言葉=トラーは終わりであると言えば、疑いも無くそうだと信じてしまうのです。

そして、聖書に戻り、しっかりそれが嘘かまことか、確かめよう

調べようなどと、殆どと言って良いほど考えない、あり得ない。

 

神の言葉が終わると言う発想が出来る=異教徒育ちの異邦人だからです。神=言葉と書いてある意味が見えない。

 

イエシュアがトラーを語っている、教えている、否定する訳ない事がどうしても理解出来ない。イエシュアは父の言葉=シナイ山で人類初文字として、永遠の契りの証拠として与えられた

婚姻契約=トラーを教えているのに、それが全然見えない。

別物の新種の、トラー=父の言葉を否定した教えを、イエシュアが教えていると本気で誤解したまま聖書を読む。

 

それこそが生まれながらにイスラエルでは無い、トラーに馴染みがなく先祖代々育った異邦人の印でもあるのです。

 

トラー無し、削除し、トラーに根拠が無い、直結していない教えは、聖書=神の言葉=イエシュアでは無いのです。建物に土台も柱も無いと言うのと同じ現象。そんな建物なんて無いでしょう。風が吹いたらすぐに飛んで潰れ消えます。

 

トラーを知らずに聖書を読もうと言う試みは、知らない外国語を、辞書無しで、想像、空想、自分の発想で学ぶ、読むと言うのと同じ事だと思います。

 

聖書全体の定義、根拠、辞書は、モーセの五書=トラーだからです。トラーに書かれていることが、トラー以降の全ての聖書で

解説されているからです。だから、福音書以降でも、書かれている内容は全部トラーに直結しているのです。

言語を見れば分かるのです。聖書の全てはトラーに直結していて、トラーの教えを語っているからです。神の言葉全て、どれを

とっても漏れなくイエシュアを指して語っているのです。それを

捨てよと言う教えは、イエシュアをもぎ取り捨てよと言う教え。

 

聖書に登場する人達、預言者、使徒、イエシュア信者は神が神の言葉を否定する、終わらせるなど、天地がひっくり返っても

あり得ないと言うことを知った人達しか聖書の中に居ないのです。

本気で神の言葉が終わる、途中で変わるなんて考える=それこそ進化論を信じるのと全く同じ事なのです。

 

ラザロのたとえ話と同じです。たとえ何を、いくらどおうまく

伝えようとしても、トラー、預言書を神の教えであると今信じないなら、その人に何を言っても超えられない壁を乗り越えて通じる事が無いと言う”たとえ話”がルカ16章にあります。

 

モーセ=トラー、預言書=トラーの生き方に戻れ!と言う警告を今受け入れないなら、受け入れたくないなら=詰まり神の教え=言葉を今受け入れないなら、何をやっても言ってもその人の耳には何も届かない、聞き入れる事はないだろうとイエシュアは

たとえ話を通して教えているのです。

 

ユダヤ人ならこのたとえ話からイエシュアにトラーの中身を教えられたら、何を言われているのかはっきり分かって聞いていたのです。

あなたはどちらを選びますか?の人生選択を促すための

”たとえ話”を通してトラーの教訓を語っているのです。

問いがある。そしてその答えは?あなたの生き方、人生選択は何?と。

神の言葉、言われる事?それとも、別の教え?を生きる?

このたとえ話は、神の言葉を生きるのか?それとも違う教えを

生きて、超えられない隔たりの壁の中に閉じ込められるのか?

 

ルカ16:28 わたしに五人の兄弟<五=モーセの五書=トラーを

生き無い5人>がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。

16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。

16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。<悔い改め=テシュヴァー=戻る=トラー=神の言葉に根付いた生き方に戻る、軌道修正>

16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

トラーの詳細=神に造られた人のエッセンスの全て、生き方の

詳細が書かれているのです。それを知らなければ、実は人はどう生きたら良いのか、神に造られた人間は、神に教えられない限り本当の生き方、本当の自分を、神の性質を知らない、分からないのです。では神は人にどう教えられるのか?神の言葉=トラーに

全てが書いてあると神が伝えているのです。

 

トラー、預言書=わたし=イエシュアが書いてある。

そこを覗き込めば、読めば、わたしが分かるとイエシュアが

言われたでしょう。

 

どう神の中に入り、近づき、深い関係を結ぶのか。

”近づく”=礼拝の中心とは、関係を結ぶ、育む、親しい関係を

築く世界なのです。神が教える方法で関係を結ぶことを神に教えられない限り人は分からない。自分流に勝手にやっても、それは只の自己満足で留まる。自己流=自分の手で作り出した金の子牛でイスラエルの神を拝んでしまう。

 

自己流では、本当の安息=シャバットと書かれている究極の親しさの関係に入れないから神に教えられた通りをやってと

ずっと聖書に書かれています。

人の編み出した教えでは、神の意図通りの親しい究極の関係には入れない圏外に出てしまうからです。

 

続く