ヤコブ1:25 ユダヤ人の耳に響くもの 異邦人の耳に聞こえるものの違い | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヤコブ1:25 

 

これに反して、完全な自由の律法自由を実現するトラー

神の教え、インストラクション=を一心に見つめてたゆまない人は<一心に見つめてたゆまない人>=注意深く神の言葉=トラーを覗き込み、神の言葉=トラーを聞き続ける人。

聞いて忘れてしまう人ではなくて、<神の言葉を聞いただけで、生きる実行に移さず、教えられた事をすぐに忘れてしまう人ではなく> 神のトラー=神の教え、指導、インストラクション通りを実際に行う人である。

こういう人は、その行いによって祝福される。

 

行い=神のトラー=言葉を生きる、神のエッセンスを生きる、

生きることはキリスト=イエシュア=トラーを実際に生きる人は、その行い通りに祝福される。

 

神の栄光は、神の教え=言葉を生きる人から現れるから、

地の塩、世の光として、神の造られた本来の人間の生き方、

姿そのものを、神の言葉を生きると言う行動を通して、クリアーな鏡のごとく、神の栄光、天の現実を地上に映し出す人から、

神は表われ出るから、その人達を神は祝福する。

 

生きる=行動=内側にある神の性質=エッセンスを表現するものだからです。

 

神は愛ですと言いながら、いじめや虐待、不機嫌や不品行

又は神が”忌み嫌う”と言う内容をやる、生きていたとしたら、

それは言動、信条と行動が一致していないと言う事でしょう。

神の性質を生きる=神の子らだからです。神の言葉=トラーを

生きる=神の子とされたから。

 

教えられて来た人の神学=教えがずっと引っかかっている、

妨害している事に気がついたら目から鱗です。

律法を生きる=恵みを無駄にする生き方。

神の言葉を生きる=恵みを無駄にする生き方?

律法と言う真実を妨害、覆い隠す翻訳言葉はもう今すぐにやめないと神の言葉の真実が見えません。

聖書に書かれている、イエシュアが生きた生き方は

神の教え=言葉=父の言葉=トラーを生きる事なのです。

神の言葉が途中で変わるわけない事、100%使徒、

パウロ、聖書に登場するユダヤ人、現代のトラーを知る人達も

知っているのです。異邦人だからそれが見えない。

いや人の教えで聖書とは違うことを信じていると言うことに

気がつくまで、これは本当に進化論を信じるのと同じ世界。

先入観が邪魔して、聖書に記述されている真実を見ようとする

事をしていない、確認もしていない。日々していないと思うのです。

 

使徒17:11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。

聖書=トラー、預言書です。
 

この事実を知る事がおおい隠されている事が最大の盲点、

障害物なのです。

 

完全な自由の律法。律法と言う本来の言語の意味、意図に全く

そぐわない、相応しくない、ずれた不適切な言葉を一切削除し、

本来の本物の意味=元の言葉に戻して、意識を切り替える。

 

律法=ノモス<ギリシャ語>=ヘブライ語ではトラー=神の教えインストラクション=指導、指針は、神の完全なる人=義とされた実態を生きる人に自由を与える。

自由を実現する神のトラー=神本来のエッセンスを、神の似姿に造られた本来の姿=義とされた人達が、生きる中で本物の自由の生き方を実現するトラーに書かれた生き方。

 

罪の法則=罪の律法の下には既に居ない。何故?イエシュアが

永遠の中から、罪の法則に縛られた人を解放する”贖い”をした、代価をもって買い戻しをしてくださった事実があるから。

その永遠の中から存在する事実を2000年前地上でも見せてくださった。

完全な自由なトラー=真理=神のトラーと書いてあるのです。

 

イエシュアが言われた”あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にする”と言う箇所にもぴったり繋がっています。

神の真理、教えを知る方法は、神の言葉の中に埋蔵されています。真理=神のトラー=神の教え、神の指導、インストラクションの中に神の真理が埋蔵されている。神の言葉を通して、人は

いかに生きるのか知るのでしょう?

 

神のトラーを一心に見つめて弛まない人。これは聖書の至る所に書かれている神の教えです。

神のトラー=教えを寝ても、覚めても、何をしていても思い巡らし、神の教えをその通りに生きて、次世代の子供達に教えよと。

神は神のエッセンス=言葉=イエシュアを生きる人を神は祝福される。生きることはキリスト。トラーの詳細をキリストは生きたから。神=言葉=イエシュア=肉体を取って現れたトラー。

 

神のトラー=教え、インストラクションを注意深く、意識的に

熱心に行う、イエシュアのエッセンスを生きる人は祝福されるとクリアーに書かれています。

異邦人が編み出した教えは神の教え=トラーを生きる人は恵みを無駄にする、神に敵対するがごときで、律法に戻るのか〜と言いますが、律法=トラー=神の教えに戻るのか〜?変でしょう。

その教え。元の言語の意味に直すと。

預言者の共通の中心の神からの託宣は何だと思いますか?

トラーのライフスタイルに戻れ!聖書のメッセージ=預言者の

託宣は、トラーの生き方に戻れ!なのですから。

それが聖書に書かれている”悔い改め”の本当の意味、定義なのです。

 

ヘブライ人の耳に直接聞こえる神の言葉と、異邦人の教えを

通した教えを聞く異教の神々の国々に育った異邦人の耳に聞こえる聖書の内容がまるで違う理由があるのです。エペソ2章。

 

人の教え、誤解した聖書解釈を土台にするから、聖書に書かれた

本来の意味と人の教えが全部意味が辻褄合わなくなるのです。

 

神の教えを生きる人はどうなると書いてありますか?

申命記に書いてある事をヤコブは思い浮かべているのでしょう。

 

これは色々な箇所に繋がるものです。

 

申命記30:14 この言葉=<トラーに書かれた神の言葉、教え、

インストラクション>はあなたに、はなはだ近く<腹の中に、

頭脳の中、性質の中に書き込まれて>あってあなたの口にあり、

またあなたの心にあるから、あなたはこれ=<神の言葉=神の

教え=神の性質>を行うことができる。

30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。

30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を

愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。<戒め、定め、おきて=トラーをガードして生きることを命じる>

 

それ=神のトラーを生きる事を神の言葉から”聞く”ならば、

あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。

30:17 しかし、もしあなたが心をそむけて<神の言葉=教え、

インストラクション=トラー>聞き従わず、誘われて他の神々を

拝み、それに仕えるならば、

 30:18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって

行って取る地でながく命を保つことができないであろう。

 

異邦人の耳に響かない理由は、異教徒育ち、イスラエルの神と神の言葉=トラーに馴染みが無い本当にそれが理由なのです。

 

1世紀当時イエシュアに直接触れた人達、当時イスラエルに居た

人達、諸外国に散って居たとしても、彼らは幼い頃から代々

トラーを丸暗記している様な家庭教育を受けているのです。

だから、今の様に聖書に何章何節と区分けしている聖書ではなく、塊で全部トラーを記憶しているのです。

だから、話の冒頭のイントロを聞けば、イエシュアがトラーの

どの箇所の何を話していると言う言葉パッと頭に思い浮かべる事が出来る人達にイエシュアが話されているのです。

 

 

続く