誰かが信じている事、誰かの考えている事、その人の内側の
状態、その人物の人となりは、その人の言動、態度、思想、
それらが実際の生活の中で表われ出る、反映する、行動、
生き方を通して、周りの人に見えるものです。
もしその人の言う事と、実際の行動が食い違うならば、それは
その人が語る信条ではなく、その人の行動、生きている事が、
その人の内側にある本当の状態と言う評判になるでしょう。
言動と行動がマッチしないと言うのはよくある事です。
分かっちゃいるけど、やめられない、分かっているけど、やらない。毒な行動、言動をやめようと決意して行動に移さないと
言う場合もあると思います。
いつも暗い、笑顔も言葉も無く、顔が曇り、目が虚ろで、
悲しそうにしていたら、何かの悩み、苦しみ、辛いことがあるのかなと分かります。
ハッピー、明るい状態では無い事は確かでしょう。
もっとシンプルに明白なのは、赤ちゃん。ご機嫌でよく笑う状態なら、健康、ハッピーなのねと分かります。それが半べそ、元気が無い、食欲も無いとなると病気かな、何でご機嫌悪いのかなと、何か問題があるなと、その赤ちゃんの行動、ご機嫌、
様子だけで分かるものです。
イスラエルの神、創造主、救い主を信じていると言うことは、
どこで分かるのでしょう。その違い、生き方は、異教の神々の
習わしを生きる世界とはダントツに違う理由を、神が造られ
語られています。それが聖別の意味です。
灯台の役割、神の元に戻る生き方はこれだよ!異教の神々の世界の生き方とは違うよと言うお手本を示す民として、世界と分かたれているからです。地の塩、世の光とはそう言う意味でもあります。
口で発言すれば、言いたいことは伝わると思いますが、
実際に一番その実態が表われ出るのは、その人の生き方です。
あなたの生き方があなたの信条を表している1番の証拠と言う
ことになります。
神の実態、栄光、性質が表われ出る方法は、神の言葉を生きる人の行動、言動を通してだからです。だから神の言葉とはズレた
事をすれば、神の実態、栄光はその人の中から現れ出ないし、
曇るのでしょう。神の性質そっくりそのままではなく、神の
性質とは異なる、歪める、変形したものが現れてしまう。
創造物の中で一番神の性質を表わすことができるのは人間です。それは、人が神の似姿に造られたからです。だから、神の性質とはズレた生き方をしたら、神の性質は曇った鏡には映らなくなるので、周りに居る人に対して神の子らとして、かぐわしい香り、姿には映らなくなるわけです。
この塩と光と言う言葉が表わす意味は、イエシュアの性質、
神の言葉の性質を表しているものでもあります。
レビ記に出てくる”コバーン”=捧げものとか生贄と訳されているものの中で教えられている実際の教えと全く繋がっているものでもあります。
塩の役割、性質、意味、光の役割、性質、意味。
イエシュアの性質にも繋がり、神の似姿に造られた人間の性質にも繋がるものです。
神の子として生きるとは、実際にどんな事、具体的には何なの?
と言うことを知らないと、神の似姿を生きると言う実際を
行動には移せないままになるのです。
イエスさまと同じように生きる=WWJDと言う流行り言葉がありましたが、それって一体どう言うことを指して言うの?どう言う思索、行動をするの?そのイエシュアを生きると言うその詳細は聖書のどこに書いてあるの?マタイから黙示録までの内容?が
それ?福音書以降の内容はどこの書に基づいて語られているの?
モーセの五書と、その解説である預言書、諸書なのです。
イエシュアが言われたように、わたしがトラー、預言書そっくり
そのまま。それを読めば、知れば、わたしがそっくり書いてある
からわたしが分かるだろうと言われた事実に繋がります。
神の言葉を取って食べよと言う意味は、トラーを読み、知り、
その実態を生きよと言う意味なのです。
クリスチャンが神の記念日、三大都上りの祭の中で、唯一
話題にするか、もしくは記念日として認める”ペンテコステ”=
ギリシャ語=50th=これは、シャヴオート=週=複数と言う
ヘブライ語です。過越から7週後に来る祭です。過越の祭と、
このシャブオート=ペンテコステは繋がっている祭なのです。
切り離せないものです。体から手と足を切り離せないでしょう。
1つの胴体に繋がっているのです。神=イエシュア=福音に
属する、繋がる同じ祭だからです。
このペンテコステ=シャブオートと言う祭は一体何を記念して
祝っているのでしょう?
”聖霊降臨祭”と言う造語を聞いたことがありますが、
この春の神の記念日を表す言葉ではありません。なぜなら、
神の性質は、始めから人の中に住まうと紹介されているから。
人は神の”息”=”霊”を吹き入られて生きるものとなったと
書いてあります。
イマニュエル、永遠から人の中に住まう神と言う性質を表す
名前、יֱהֹוִה=אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה=四文字で表される、在りて在る=過去、現在、未来、同じ、変わらない、全ての源を所有する
存在=エヒエ アシェル エヒエの性質に相反する性質を表す
祭の呼び名です。初めて聖霊が降臨した事を祝う記念日=それは聖書ではなく、人間が作った教えであり、その思想から生まれた
造語の呼び名です。聖書ではシャブオート=過越から7週目を
表す意味の祭の名が在るのです。
聖書では、神の言葉の解説では、”トラー”=永遠の婚姻契約を
与えられた事を記念する祭なのです。
使徒2章でも祝い、その祭のために、弟子たちに”エルサレム”に留まりその祭りを迎えなさいとイエシュアが遺言したのです。
そうすると人の教えが、聖書ではなく、異物、変であると言うことが聖書だけに照らし合わせれば明らかです。
ペンテコステを祝う意味は、”奴隷状態”から贖い出され、偽の主人から切り離され、代価を払い買い取られ、救い出された後に、本物神の元に娶られた人達が、永遠の婚姻契約=本物の主人に
繋がれて永遠に生きる保証、契約、約束を与えられた事を記念
する永遠に祝われる祭だからです。
一体何を祝っているのでしょう?と祭の意味、内容を、聖書の
事実、真実の点と点だけを繋げて、人の教えに繋げなければ、
聖書、神の言葉の事実は明らかになって来るでしょう。祭の意図や意味を人の教え、神学が変更しているのです。
昇天以降は、永遠の婚姻契約が破棄される”記念日”へと変身
したのでしょうか?神の言葉に反する、聖書とは異なる
とても変な教えになってしまいます。
その教えが聖書の事実か否かは、聖書を読めば書いてあるので、事実が分かるでしょう。
永遠の代々神の民、子らで祝う、”わたしの記念日”と神が
言われた、神の言葉は永遠に変更無しなのです。
クリスチャンには、ペンテコステとは、トラーが廃止された
記念日となる?それって聖書では無いです。
全世界へ同じ婚姻契約=イエシュアが与えられている証拠を
再現=シナイ山の儀式の再来、再現なのです。使徒2章は。
イスラエルだけでは無い、様々な言語を話す全世界の全ての民族=アヴラハム=全世界の民族の父を通して全人類へ与えられた
同じ義、救い贖いが永遠から異邦人にも与えられている証拠を、世界中に歴史的記録に残る儀式として、あのイエシュアが処刑された、昇天された年の”シャブート”の祭で、神が再現、表して
くれたものだからです。シナイ山でも、イスラエルと異邦人に対して同等に儀式が行われ、天と地を証人として行われたのです。
トラー=神の言葉を生きるとは、神との関係に入り、今までの
異教の神々の生活習慣とは決別し、神の教える生き方の全て
衣食住全ての分野を含めて、全ての点に於いて、神の子としての生き方を生きる事に移行する事、それが贖われた人の生きる道、
偽の主人から鎖を切られ、本物の主人が買い取って身元に引き寄せ、神の懐に肌身離さず置く最高の宝であると表明してくれていることが聖書に書かれています。
出エジプト19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
それが神=本物の主人との婚姻関係の中で結ばれている証拠でもあるのです。神の記念日はその婚姻事実を表す”証拠”=印で在ると、神が人に宣言されているのです。
嫁いだら、その嫁ぎ先の家、主人の生き方を1から教えられる
のと同じ事です。
本物の神=創造主=主人に繋がり生きる人の生き様、それが
トラーに書かれた詳細だからです。トラーには人が生きる全ての領域が漏れなく網羅して書かれています。なぜ?安全に守られるため。お互いが幸せに、傷付けあう事なく、お互いをガード
して、シャロームの状態で生きれるためです。
そして、同じ神の民=家族の1員とされた人達が、神の作った
同じ記念日を設けられて、それを共に喜び楽しみ祝うように
神が祝福として与えてくださったのです。ペンテコステも
その1つです。神の記念日は全部丸ごとでワンセット。
一つだけ取り出して祝うようには造られていないのです。
ちなみに今年は、来週の木曜日28日の日没がシャブオート
<ペンテコステ>です。