トラーの完成形 完全なるお手本はイエシュア | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

キリストが、律法を終わらせるためにこの世に来たのである

言う人間の教えを、原典の言葉の意味で置き換えると

こう言う風になります。

 

キリストが、永遠の神の教え=言葉=婚姻契約=父の言葉=

約束=保証=愛、救い、贖い、祝福=神ご自身の実態、性質=

終わらせるために、破壊するためにこの世に来ました。

 

こう言う意味で聖書に語られているとするならば、完全に事実とは噛み合わない、意味不明、変、辻褄が合わない事は明らかです。

 

この箇所はマタイ5:17を誤解して解説している一般的な

注解です。 

 

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

 

<律法=トラー=モーセの五書=シナイ山で与えられた父の言葉=永遠の婚姻契約、預言者=預言書を廃する為に来たと

思ってはならない>。とありますね。

翻訳でも読めば分かりませんか?トラー、預言書を廃する為に

来たのでは無い!!!とはっきり書いてあるのに、どうしてそれが破棄、終了?と読み続けるのか?疑問に思って欲しいのです。

変でしょう?変だろう。何だろう?どうして書いてある事と

違う意味に変換して読んでるのだろう?翻訳では少々意味が

見えない箇所でもありますが。

 

”破棄する”とここで書いてあるヘブライ語の本当の意味は、

廃する=トラーを曲解したり、違う意図で教え、生きる

成就=トラーを神の意図通り理解し、正しく教え、生きると

言う意味なのです。

1世紀当時のイスラエルの世界の”慣用句”なのです。

廃する=終わると言う意味でも無いのです。聖書に登場する

ユダヤ人で、神の言葉が終わる、廃れる言う発想をするユダヤ人は誰一人も居ないのです。

神の言葉=トラーを曲げたり変形したり歪めたりした教えをしない、生きないと言う意味です。

 

この様な疑問が神の伝える言葉の真理を開く、気が付く扉の

鍵を手に入れるポイントです。どうして書いてある通りに

読まないの?とまず考え続けてみてください。

 

神の言葉は永遠に変わらない、固定、フィックスと言う前提

ありきで、聖書の全てが語られているのです。人の教えは

神の言葉の性質=永遠性とは違う事を解説しますが

 

その神の永遠普遍の宣言、神の言葉に対する性質を語っているのにも関わらず、神の言葉は変わると言うことに変えてしまったら、どんな形にも神の言葉を変形して解釈出来てしまうのです。人間の側で。これが歴史の中でずっと繰り返されてしまって

いるのです。異邦人の手により。それが預言書の警告。

神の言葉と神の記念日を変えるもの=神に対して、荒らす忌むべき事をするものと書いてあるのはそれです。

黙示録まで同じ意味です。

 

神の側では人が神の言葉を変えても神の言葉=契約は永遠に堅く立つとある通りの事実は変更無しなのです。

 

言葉=神と書いてある意味はヘブライ人なら説明されなくても

分かります。神が神の言った言葉を変更、言葉を終わらせる?

神自身を破棄、破壊する?一体それはどの神々の何の教え?と

ヘブライ人ならそう考えます。普通の家庭でも親の言う事、

父親の言う事、主人の言う事を無視しても良い、人が伝えている事に対して軽く取り扱い、無視し、ないがしろに聞き流す態度と言う子供達や奥さんてどうでしょうね?

それと同じです。相手に対する尊敬の念も無いと言う事でしょう。相手との関係を大事にしていない事は、言われた事を無視すると言う態度、行動で示されているのです。

 

関係の性質が見えるのです。相手に対してどんな意識、態度を

持っているのか?相手の言う事をどう受け止めて生きてるのかで分かるのです。

 

時系列に聖書に書かれた物事を眺める、発想するから見えないだけでなのです。

 

アヴラハムが異教徒の父と異教の神々を拝する文化に生まれて

そこからいきなり出エジプトと同じく突然、瞬時に、取るものも

取らず、全部人間関係の全てを置いて、そのまま生まれた父の家を出るように言われたのは、”東西南北”を神の目から見る事、

割礼を頭脳に受ける事、新しい人=肉では無く神の似姿=義とされた人の実態を再学習する旅に、神に呼び出され、導かれたからです。

 

東西南北と言うヘブライ語の言葉には、意味があります。

人間の肉の目では見えないものが眠っている4つの方角。

東西南北と言う言葉で表されている=神の領域、肉の目には

隠されて見えない世界を神が見ている通りに見る事です。

世界全体。

そして目を上げて、神の示す地東西南北を見よと言われた意味は、神の目を通して、自分の考えではなく、神の目線まで完全

軌道修正して、今までの思索、思想を捨てて、丸ごと新しい

生き方、義とされた人の事実で、神が見ている通り、神が考えて

いる通りを見なさいと教えられた事に繋がります。

 

アヴラハムも同じ”イエシュア”の救いを得て、実際にイエシュアに地上で出会っている場面が書かれています。

どの時代でも神は時空を超え、同じ業、人と差別、分け隔てない同じ関わり方、同じ恵、救い、贖い、助け、祝福、義とされた人の事実を与え続けているのです。古代は仮の粗末な一時的な不完全な助けや、救いが与えられていた?それは聖書とは違うでしょう。

 

贖い、救い、恵、義とされている実態を受け取り、その後

本物の自分を実際の生活の中で生きのかどうかは、その人

一人一人、個人個人の側の選択、決意によると言うだけです。

どの時代でも同じ。現代も同じです。同じ人間だから。

 

時代ごとに神の救い、恵が違うとは、神の手が短くて人に関われない?同じ救いを与えられないと言っている事と同じなのです。

 

聖書だけに戻れば、アダムとエバから、ノア、アヴラハム、

イサク、ヤコブ、全ての預言者、名も無い古代の人達、異邦人も

含め、全て”同じ”贖い、救い、助け、恵、祝福、永遠の命を受け取っている事実がはっきりヘブライ語聖書に、そして神の言葉が永遠に変わらない事実を歪めないで読めば翻訳でも記されているので、読み取れます。

 

聖書の基本的事実、基礎になるコンセプトを曲げて読めば

聖書はどんな様にも曲解出来てしまいます。

神の思索とは異なる、自分の考え、思想を聖書を通して、

聖書を利用して語る事が出来きてしまうからです。

聖書の箇所をちょこっと取り出して創作の教えも作れる。

それが聖書とはマッチしない人造西洋神学であり、神学を通して語る翻訳聖書の解説でもあります。

 

2000年以降から別種の救いが出現なんて聖書には書いても

無いし、そんな理解をする聖書に登場する使徒たちも居ないのです。

 

詰まり、西洋神学が教える聖書を読む前提が、福音書以降は、

永遠の神の言葉を終わらせる教えをしに、救い主が来られて、

十字架に掛かったと教えているから、その神学を教えられた人達は、聖書とは違うのに、新しい教え、新しい別の契約を与えられたのだと考えてしまっていると言う事なのです。

 

救いはエデンの園から同じです。アダムとエバから今現在まで、

又未来も変わらない同じ実質のイエシュア=救いを受け取り続けて人は生きてきたし、生きて行くのです。一人一人が神に与えられた命、人生をどう生きるか、受け取るかは別の話ですが。

 

本物が地上に現れた、それまで神の預言者、仲介者、祭司達を

通して人が教えていたもの、ヘブル8:13は、神殿の中で
教えていた、トラーに書かれた詳細、祭司がイエシュアの
代行人として教えていた全ての”完成形”、そのままの姿が直接
現れたと言う事です。トラーが終わり、廃れたなんて話は聖書では無いのです。
 
ローマ10:4と同様で、イエシュアが実際にトラーを生きる姿が完璧であると言う事なのです。イエシュアを超える、優る
お手本は無いでしょう。トラーを人が生きたらイエシュアの様に生きる=トラーの完成形の生き方と書かれているのです。
 
イエシュアがトラーに書かれている完成形=人間の生きる目標=最終ゴール!と書いてあるのはそれです。
トラー=神の言葉が終わりではなく、イエシュアが人間の究極の生きる姿を生きて表していると書いてあるのです。
トラーは破棄、終わると言う教えと、トラーは永遠、イエシュアの生き様がトラーを生きる究極のお手本ですと言う聖書の本当の意味とでは、全く天と地ほど、雲泥の差があります。
トラー=イエシュア=救いが肉体を取って生きたと書いて
あるのです。
 
だから、昇天以降は好き勝手にそれぞれの好むところを生きて
良いと言う教えは、聖書とは全く異なる教えなのです。
恵みにより生きるとは、聖書ではトラーの詳細を生きると
言う意味なのです。
神の名を唱えながら、トラーに書かれている姿とは別の生き方をする人たちへ、無法をなす者=トラー無しに生きるもの、あなたと私とは何の関係も無い=トラー=婚姻関係の中で結ばれていないとイエシュアが直接警告しているのです。
 
 
続く