ローマ10:4 先入観が真実を見えなくする | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

言葉はその言葉が表す実態の意味を伝達する手段で、言葉を通して物事の意味、概念を表すものです。だから、言葉を表すものに対して不適切な表現をする、又は全く意味の違う言葉で表して

しまうと、その実態の意図通りの意味、内容が伝わらずに、

真意が隠されてしまうのです。

これが神の言葉に対して、歴史の中でなされてしまったのです。

 

そして聖書とずれたコンセプト、概念を元に聖書に書いてある事をオリジナルの言葉=ヘブライ語の意味とは違う翻訳から解説されてしまったら、それこそ神の意図通りの意味も教えも自分には届かなくなってしまう事が起きるのです。

 

ローマ10:4

ヘブライ語

 שכן המשיח הוא תכלית התורה, והוא מצדיק את כל המאמין בו.

               <タフリット ハ トラー>

ギリシャ語

 τέλος<テロス> γὰρ νόμου <ノモ>Χριστὸς εἰς δικαιοσύνην παντὶ τῷ πιστεύοντι.

英語

<New King James Version>

For Christ is the end of the law<律法の終わり> for righteousness to everyone who believes.

 

<New International Version>

Christ is the culmination of the law <律法の最高点、絶頂>so that there may be righteousness for everyone who believes.

 

中国語

 其實基督是律法的終極目的,使所有信靠祂的人都可以得到義。

 

新共同訳
キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

新改訳改訂3
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
口語訳
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
 

ヘブライ語、ギリシャ語、英語、中国語、日本語の翻訳を見ると

それだけでそれぞれの翻訳に意味の違いがある事は明らかです。

 

聖書で書かれている大元のヘブライ語は、完了、完成、完成形と言う意味であり、もう付け足すものが無い状態である、詰まり

これ以上のものは無いと言う意味です。

ギリシャ語でも、究極、最大、極限、極め付け、完成形。

終わりで終了と言う意味とは異なるのです。

翻訳された言葉には常に裏にヘブライ語がありきで訳されているので、その大元のヘブライ語の何の言葉を翻訳が訳しているのか、対応しているかを考えるのです。

 

最初に結論を言うと、世間で主流な”律法”を終わらせたとされる証拠、根拠としてこのローマ10:4も取り出され語られますが、完全なる間違った解釈であり、ヘブライ語の聖書に書かれている意味を誤解してしまう不適切な翻訳である典型的な例なのです。聖書に書いてある意味が出てこないどころか、神の言葉の

永遠不変性を完全に真っ向から否定する教えを生み出してしまっている翻訳であると言う事です。

 

そして、翻訳の英語では、律法の終わりと、律法の最高点とありますが、読み手に伝わる意味が翻訳により異なってしまいますね。

 

日本語の口語訳では、律法の終わりとなられたとあるので、

何となく、主流な神学にぴったりな翻訳です。キリストが来たので、今までの呪いの一時的に仮の律法は終わった、又は人の教えでは、ユダヤ人だけやればいい教えなどと言う創作の教え

そう言う概念を植え付けるにはぴったりな訳です。

 

聖書翻訳で、律法と言う翻訳用語自体がもともとミステーク

不適切、そぐわない言葉で表されてしまっています。

山田太郎さんと、谷口和男さんとでは、人間、日本人男性と言う点は同じでも、完全に別人物だと思うでしょう。誰であるのかと言う一番肝心な事が見えなくなるのです。

 

それ位の違いがある不適切な誤訳なのです。永遠の婚姻契約

呪いの仮の律法とでは、同じ性質の同一の物だと考える事不可能でしょう?

神の言葉は”永遠”と神が言っているのに、”仮” ”一時的”と

再定義し直す、言い変えて説明するのは本当に人間の側の、

神に対する違反=ハター=ズレ=ミステークです。

神が言う事に対して、人間が違うことに変換して他者に伝える、神の言葉を否定している行動そのものなのです。一点一画も神の言葉に付け足し、差し引きするなかれと言われたことが、

人間の教えと言う脂肪で覆われた頭脳にはその神の言葉は貫くことは出来ず、重い耳=人間の教え、価値観、先入観で遮られた

耳は、神の忠告が届かなくなってしまう事が起きているのです。

 

そして、中国語では律法的終極目的とあります。

律法はズレた翻訳ですが、終極目的と言う意味では、キリストが

トラーの最終目的=完成形=お手本=ゴールと言う意味では

元のヘブライ語が表す意味にはぴったりです。

 

日本語では新共同訳が一番近い意味で訳されていますが、

どれも神のトラーを、元の意味、教え、インストラクションとは

訳す事をしていません。でも目標=詰まりキリストが、人が

トラー=神の教え、インストラクションを生きると言うことに

於いての究極の目標、お手本、完成系の姿と言う意味の部分は

ヘブライ語が表す意味とぴったり合います。

 

翻訳者の中にそれぞれの元々の先入観があるので、聖書に書いてある事が翻訳に反映、そのまま現れる事が出来ない訳が多いのです。反映されないどころか、誤解を生じる翻訳がされている箇所も無数にあるのです。不適切な翻訳、聖書に無い人造翻訳用語

聖書に無い言葉、文章を挿入、又は削除。なぜ?人が作った

神学に合わせた訳、人の教えをサポートするための翻訳を

作るからです。

翻訳者の信条が反映されてしまい、翻訳者の思索も盛り込まれて訳されてしまう事が起きるからです。

 

ヘブライ語聖書にはそれが無いのです。詰まり神の言葉をピュアに保存する唯一の方法=言語として神が選んだ理由はここでも明らかになるのです。古代から現代まで、変わらない。

 

書いてある通りの言葉以外、一点一画も変更、付け足し、削除しようがないからです。途中で変わらない。書いてある通りを忠実に書き写すだけ。それがスクライヴ=トラー学者=律法学者と

書かれていますが、それらの学者の役割だったのです。

 

原典聖書に書かれている一文字一文字を変形のしようが無い、

してはならないからです。

神の言葉を曲げたら、神の意図が人類に伝わらなくなります。

 

ここで、ヘブライ語を知らなくても、律法と言う言葉は完全誤訳である事を知れば見えて来る事実があります。真実の点と点を

ずっと繋ぎ合わせていけば、神の語る言葉の真実が浮き彫りになります。

律法の裏にあるのは、トラーと言うヘブライ語です。

トラーとは神の教え、インストラクションと言う意味であり、

トラーとはヘブライ人は”父の言葉”=シナイ山で人類の歴史初、神の言葉、約束、契約が文字として永遠の証拠、永遠の婚姻契約書として書かれ、モーセを代表として与えられたと神の言葉から理解している人達に伝えられている言葉なのです。

そして、神の言葉=婚姻契約は、聖書に書かれている通り、

人種の差別無く、永遠!永遠とはテンポラリー=仮、一時的

などと言う意味では無いことを今一度個人で聖書だけに戻り

書いてある言葉、意味を再確認しないとならない点です。

人に神が伝えている言葉、意味とは違う情報を、神の言葉を

曲げて、永遠とは、実は一時的=仮と言う意味ですと言う、

偽りを伝達し続けてしまう事は止めないとならないからです。

 

聖書で、どの箇所でも、教え、知恵、いましめ、仰せ、導き、道

真理、光、約束、父の言葉、言葉etc と書かれていたら、

それは全てトラーの性質、内容を指して話している事。

愛、憐れみ、寛容、恵、贖い、救い、助け、祝福、etc etc etc と言う用語で書かれている全ては、トラー=婚姻契約の中に綴られている定義、詳細を指して話していることを知れば、

翻訳=誤訳が変だと気が付けます。

トラーが終わりなら、福音書以降に綴られている、愛、救い

贖い、祝福、恵も終わりと言う事になってしまうからです。

神の言葉が終わるなら、神も終わり、天地も消え失せ、

イエシュアも終わりと言う意味です。

 

しかも、福音書以降も同じなのです。愛、救い、贖い、祝福

恵、助けetc etcと言う言葉の定義はトラーに書かれた詳細を

指して語っている事実に気がつけば、別の福音や別の契約が

出てきたと言う人の作った教えの誤解から抜け出すことができます。

 

なぜなら、イエスキリストは、”永遠普遍の神の言葉”を終わらせに来たとなればどうでしょう?それこそ救いは無いと言う事です。イエシュア=救い=トラーだからです。

父の言葉を教える、父の言葉以外語らないと言われている

イエシュアの言葉に反して、父の言葉を否定、終わらせに来ましたとなれば、支離滅裂な教えをする偽預言者である事は明らかになります。

 

 

 

続く