子供時代に自分を世話してくれる、教えてくれる親や周りの
人達、又は学校の先生は、子供達に多大なる影響を与える
ものだと今振り返ってもそう確信します。
教える先生はいわゆる教える子供達の自己像、人格形成に
影響する鍵を持っています。今の子供達はどうか分かりませんが、幼稚園や小学生の頃は自分の担任の先生が皆大好きで、
尊敬し、愛着を持ち、先生の真似をして、同じような文字を
書いたり、先生の意見に大賛成だったりそんな感じでした。
どこでもそうですが、この世の価値をまともに受ける、
学ぶのは、学校と言う初めて出会う社会での”競争システム”
でもあると思います。
学校が定める所の基準の”良い生徒” ”価値ある生徒”
”有能な生徒”などの評価。点数や出来や、活動や特異能力を絶え間なく比べる競争の世界。一人の人として、自分が自分である、その人であると言う故の価値ではなく、能力や技能などで
測られてしまう。何ができるか、どれだけ貢献出来るのか、
宗教の世界も全く同じだと思います。数で、人数で、活動の
派手さで、注目度で、影響力、人気度で神の業をしている
神に祝福されているなどと測られてしまう。
そうしたら、他の他宗教はもっと神に祝福されている事に
なってしまうでしょうね。すごい立派な建物、財力、人数。
又は、人が誰か=神に造られたと言う事を知る人達は、
”比べる”と言う事自体が不自然であると言うことを知っている
べきでしょう。
釘とカナヅチは製造された,目的、用途が全く違うので、
比べる事が出来ない。釘には釘の役割。カナヅチはカナヅチの
役割がある。造られた人は造った人に異議申し立ては出来ない。
創造者の意図、目的があるからで、創造物は物申せない。
釘にカナヅチの、カナヅチに向かって釘の役割をしろと言う教えが初めてから不可能なのです。機能搭載されてないのに、
無理です。猫に空を飛べと言って叱咤激励する事と同じ。
それぞれ違う人に造られたのに、自分では無い誰かと同じようにならないといけない意識はどこから来るのか?それは人が作り出した”基準”、価値観、思想、哲学から来たものです。
親と言う言葉は、ヘブライ語で”ホレー”と言う言葉です。
これは、トラーにも、教師と言う言葉=モレー、そして的に
当たる路線=ヤレーと言う言葉全てこれらの言葉は共通した
文字を共有し、共通した意味を持っています。
面白いことに、イスラエルで秋の最初に降る、カラカラに乾いたイスラエルの大地を農作物を育てるのにふさわしい柔らかい地に砕く雨を、”ヨレー”と言います。トーヴな地を準備する雨。
たくさんの実を実らせる大地を準備する雨。
親は律法を与える人、上から厳しく見張り、出来てるか出来てないか絶えず監視している人ではなく、子供を教え、養育し、
励まし、愛し、そして正しい道=神の言葉、神の造られた人間の性質を生きる道へ導く、教える役割をする人達です。
その人は、生ける水の辺りに植わった人になると詩篇1にある
通り、全部意味が繋がります。
神の言葉の中に留まり、神の言葉を食べて実際に生きる人には
その季節季節ごとに豊かな実を実らせて行く。
だから、もし教師や親に神の言葉の性質とは違う事、
この世が提唱する偽の価値観や、又は神の言葉とは異なる
宗教の教えを教えられてしまえば、霊的精神的肉体的ダメージを受けてしまうのは当然なのです。デザイン、エッセンスに反すれば自分に合わない形、サイズの靴を履いて歩いて不具合が生じるのと同じ。その度合いは色々あっても。
だから親や教師はその人の人格、自己像を形成する事、その人の
エッセンスに沿って指導すると言うことを手の内の中に預かっている重たい重要な責任を負うと言う事でもあるのです。
それには、まず教える人こそ、”神の似姿である人”として造られた自分を本当に知り、それを生きないとならないのでしょう。
特に神の言葉を教えると言うことは、書かれている通りに
知って教えると言う重大な責任が伴うのです。
そして、周りの人達に養育されても、人を成長させて下さるのは
まさに神ご自身です。体もそうです。内側もそうです。
自分の意識が神の言葉の中にずれないでいる事、同時に神の
言葉を生きる事。そして周りの人達に教えられ、助けられる事
これらは必要な事です。
人がまず創造主に出会うのは、何かのきっかけや状況を神が
予め用意していてくれるのです。人生の中に起きる全ての
出来事はちゃんと神の詳細なプランがあるのです。
偶然なんて1つも無い。神はうっかりなどどんな時もしていない。
人が生まれてくるのには、代々繋がるには、ちゃんとその前の
時代の親が居て、彼らの出会いがあって命が生まれると言う
連続、継続が最初からずっと続いているのです。
どのラインが途切れても、今には繋がらない。
自分の先祖が居て、その人達の人生の詳細も神のプラン=御手の
中にある。個人個人が気が付いて居なくても。偶然なんて一つもないと言う事です。そして、何かを通して、ある時神に出会う
経験をすると言う事です。
神に出会い、新しくされた命を受け取り生きる事を可能にするのは、”神”しか居ないですね。人には出来ない事です。人が誰かに救い主に関して伝える事は出来ても、人が人に神の命の実態は
与える事は出来ないです。
それをヨハネ1:17で話しているのです。
神のトラーは終わりと言う考えは、聖書と全く異なる教えである
のです。
モーセは神の預言、神の言葉をそのまま伝え教える人であっても”内側”に宿る神の実態=神の実質は、モーセは人間であるので、与えると言うことは出来ない。その力も無い、人間が神に
成り代われないから。人間が人間を救えない。
その事をヨハネ1:17は話しているのです。
全ては、神を通して与えられる。でもその実態、内容を、
人と言う仲介者=モーセを通して知らされた、教えられたと言う
ことが書かれているのです。モーセが語った実態の全て=
イエシュアであると書かれています。私を信じるとは、モーセを
信じるとイエシュアが言いました。ではどうしてモーセ=父の言葉を預かり書き記した教えを捨てるのでしょう?福音書以降の
教えは100%全てモーセの五書です。それに付随する預言書
諸書それ以外の教えは書いて無いです。。
それを、モーセに与えられた律法は終わりで、恵<別種の教え、
2000年以降に現れた新しい教え>はイエスキリストが与えたのですと、半分真実で半分は不真実な理解になってしまう事が様々な聖書箇所で起きているのです。
そうすると、モーセのトラー=神の言葉は終わりで劣る教えなどと言う発想が聖書ではなく、全くの誤解である事は、聖書に
書かれている内容を、原典に戻り、神の言葉通りに戻って
書かれている通りを理解すれば、誤解に気が付くのです。
ヘブル書8:13の箇所も同じです。
神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。続く