命 救いを与えるのは神 人は仲介する事が出来るだけ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本人には、日本に住んでいる日本人だけに分かる事があり、

それは何も難しく難解な事、秘密主義、神秘主義な内容では

無いけれど、外人や日本に関しての知識が無い場合には通じないと言う事があります。逆も然りです。

 

神の言葉が語る意図通りに神の言葉=トラーを理解している当時の人達、詰まりヘブライ人で1世紀にイスラエルに住んでいれば

誰でも知っている事、トラーや、当時の文化や言い回しや

風習、習わしその他etc etcがあります。

現代の外国人やトラーを知らない人たちも同様にそれが見えない

事実があります。

 

イエシュアは、トラー=モーセの五書=レビ記や、申命記や、

民数記や、創世記の箇所を、たとえ話を通して語られて、

聞いていた聴衆はイエシュアが話されている意図、内容が

クリアーに理解出来た訳です。

そして、イエシュアはトラー=父の言葉=永遠の婚姻契約を

否定する教えなどただの1度もしなかった、しない、する訳が

無いと言う事を本当に知らないと、そこから先は人の考え=神学で様々な変化球、変身した教えを編み出してしまうのです。

 

イエシュアが話しているたとえ話は、レビ記のあの数章の内容だとか、これは申命記のどこの教えだとか、たとえ話しを通して

解説している内容を、トラーを知るユダヤ人の聴衆はちゃんと

理解して聞いていたのです。神学を通して考える異邦人は、

全てトラーを否定した、別の新しい教えをイエシュアが語られたと考えているのではないでしょうか。

 

そのたとえ話の内容は、話の中の登場人物の意味は当時のユダヤ人なら誰でも理解できるキャラクターである人達。

物であれば何を意味しているのか、植物や農作業を通して

語られたらそれが何を意味しているのか、普通に

分かって聞いていたのです。

 

マタイ13章にある4つの地の状態も、農作業や作物がどう

育つか知っている人ならちゃんと理解出来る内容であり、

”どんな頭脳、意識”=地で神の言葉を聞き、受け取り、

生きるのか?

その4種類の地=頭脳、あなたの頭脳はそれらのどの状態?と

言う問いなのです。

 

Youtubeで世界に住んでいる日本人の番組がupされているので

時々見ます。皆日本をどうして離れて、どんな暮らしをしているのか、どうしてそんな場所に行ったのか、とても興味深いです。

神のプランがそれぞれにあるのだと思います。

 

その番組の中で、ある日本人がフランスで、日本の野菜を作りをされていて、現地のフランス人達、ミシュランのレストラン

シェフの間で爆発的な人気になっていると言う動画を見ました。

 

その方の前の職業が、”盆栽”をフランスで作っていたそうで、

時代の流行にも乗り、大ヒットしたと有りました。

盆栽の仕事をやめた理由は、ある時大量に盆栽が盗まれてしまった事だっとか。1つ100万もする様にな奴をごっそり盗まれて

しまった。

盆栽を育てていたので、又その知識や父親がやっていたのをみて習得したものであり、木の”剪定”をどの様にすれば良いかを知っていた。それ以降、土地はあるので野菜作りをしないか?と

勧められてやって見たそうです。盆栽を栽培する知識が野菜を

作る時に同じく通ずる技術であり、非常に役にたったと説明していましたが、なるほど〜と思いました。

 

イエシュアが話されていた”刈り込み”される意味にもぴったり

繋がる事です。神の創造の真理は、実際に生きる真理とも、

創造=物理的な世界ともぴったり1体です。

不必要な葉や枝、何を切れば、作物に直接に栄養が行き実が

立派に実るのかと言う事です。

 

西洋神学の教えは、イエシュア以前にあった教えは、律法で

あり、仮の教え=モーセの五書、もしくはユダヤ人だけへの

教えであると言う様々な定義がされていますが、聖書では

”神の契約、約束、言葉は1つ”であり、永遠に変わらず、全人類に同じものであると書かれています。アヴラハム=全人類の父である代表を通して、全人類が義とされ同じ祝福を受けると言う

神が伝えた言葉の意味、約束、全人類に同じである契約である

事をはっきり理解すれば見えます。

 

これは聖書の読み方が分かれば、ヘブライ語に書かれている意味が分かれば、クリアーに真実が浮き彫りになり、創世記から

黙示録までのメッセージが全て、全部ブレずに、聖書のどこにも矛盾、敵対する教えもなく、一枚岩、一帯で同じ意味で繋がっている事を見ることが出来るのです。ヘブライ語では全部同じ意味で同じ内容、言葉で繋がっていることが言語からはっきりと見えるので、疑う余地はありません。

 

同じ言葉を最初から最後まで同じ意味でずっと貫かれて

書かれているからです。途中で意味が変わったり、定義が変わったり、神の言葉、約束、契約に変更も無いからです。

 

人の教えを通した翻訳を読むと、先入観と言う下知識と、

元の言葉の意味を知らない事、別の言葉や別の意味合いで

翻訳では訳されたり表現されてしまうので、様々な変化球の教えを作り出してしまい、書かれている言葉の意図からずれる、

逸れてしまうのです。

 

だから神の言葉=教えを、”律法”なんて言う翻訳で聞かされたら、神の言葉は律法であると考え、律法と言う言葉が表す独特の

イメージを植え込まれ、神の言葉に対してのずれた考えを持って

しまうのです。言葉は人の中にある特定の概念と意識を生み出すからです。

律法はヘブライ語ではトラーと書かれており、その意味は

神の言葉、教え、インストラクションであるなどと言う考え、

発想が翻訳の”律法”と言う言葉からは絶対に想像できないのです。翻訳聖書を読んだだけで初めから、”律法”と言う言葉は

誤訳で不適切な翻訳であるなどと気が付く人など一人も居ないはずです。本当の言葉は、”トラー”=神の教え、インストラクションと言う意味であるなど即座に分かると言う人など、ユダヤ人

以外誰もいないです。元のヘブライ語で書かれた本当の意味を

聞いて初めて、それがどんな意味なのかを知る以外にないのです。だから、正しい手がかり、情報、聖書の内容を教えられる事は必須なのです。

 

昇天以降は今まで聞いたことの無い、さらに優れた契約、教えを

与えられたとしますが、原典聖書にはその様に書かれて

いません。イエシュアも同等にモーセを通して文字で書かれた”父の言葉”=婚姻契約=トラーを意図通りに正しく伝えて

父の言葉を生きると言う本当の意味を教え来たと言いました。

誤解は、人の神学、考えで解説されるコメンタリーが聖書の真実だと言う前提で聖書を読んでしまうと言うことなのです。

 

ヨハネ1:17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。

 

この訳も原典では、”トラー”=神の教え、インストラクションは

モーセを通して与えられたと書かれているのです。

そして、そのあと”めぐみとまこと”とはイエスキリストを通してきたと言うのを読んこんな解釈や教えを聞いて信じていませんか?

 

モーセは仮の教えを与えた=律法を与えたが、イエスキリストは

律法ではなく、本物のより優れた教え、生き方、めぐみを

与えられたのであるetc etc etc。

 

ではこの文章は言語で聖書に書かれた意味では本当はどう書いてあるのでしょう?

モーセを通して”トラー”=神の言葉=教え、生きるインストラクションの詳細が与えられたと言う事実が書かれています。

神が造られた人間のデザイン、その人達が生きる詳細を

モーセを通して人類に全ての詳細を記されたと言う事。

 

でもモーセは人間ですよね?神の教えは伝え、書き記す事が

出来て、人に教えたとしても、実際にトラーに書かれた、贖い、救い、恵、祝福を人に与える事が出来るのは、神の子の性質を

生きる事、聖霊が内側に宿り生きる事を可能にする事が

出来るのは誰ですか?

神以外にいないと言う事でしょう?人の内側を変えるのは神以外に不可能でしょう。

そして、神の子らしく、神の言葉の実態を生きるのを可能にするのは神しかいないのです。

それを、本来の人間の姿、神のに姿=トラーの実態を生きる事=、”めぐみとまこと”はイエスキリストを通して来たと

説明しているのです。

 

モーセが仮の呪い不完全な律法を与えて、イエスキリストが

来たので、その古い律法を終わらせ、新しい時代はより優れた

教え、契約、めぐみを生きる、別の教えがイエスキリストを

通して異邦人に与えられたと解説されますが、聖書の事実を

全く曲解した解釈なのです。

 

お医者さんが手術し、薬が与えられても、実際に人が治る、

癒されるのは、そのは人の内側に備えられている治癒力、

つまり神が癒してくださる以外ないのでしょう。

医者が、薬が治したのではなく、医者や薬は治る手助けをした

だけです。

人の計画や努力で子供を設けても、実際に命を与えるのは神で

ある事と同じです。

 

 

続く