救い主が地上に来られた目的の1つは、トラー=父の言葉=
人が生きられない不可能な律法、呪いを終わらせるために来た
そして、新しい契約=教え、恵の生き方を与え直すために、
救い主が2000年前に来られたのですと言う教えが、
今まで普通一般に聞かれる主流な教えであったと思います。
そして、信じた後聞かされるのは、”罪の告白=許される=
神の子とされる。これは聖書に書かれています。
それは1つの側面であり、神の贖い、救いの全貌はもっと
広く深く永遠に繋がる大規模なものなのです。
”天国に行ける切符を手に入れた”そして、他の人にも天国に行ける様に伝える事、神のために様々な事、自分の好きな事を犠牲にして捧げるのが神のみ心に叶う事、宗教活動が生活の中心、
第一にする事。生活の中心は宗教活動、それが神を愛する事、
宗教活動に参加する事、信仰の度合い、神への愛を測る
バロメーターであるとされてしまう。
この様な教えがほぼ中心だったと思います。1970-90年代は、
アメリカでは何かの教え、誰かが編み出した活動のムーブメントが中心で、神の言葉を学ぶと言う事は全く二の次でした。
オリジナルヘブライ語聖書の中に何が書かれているか教えられる事も全く無く、まんべんなく聖書を知る、学ぶ、神の言葉に
しっかり根付いて生きるなど皆無全く無い時代でした。
聖書てオリジナルは英語で書かれているのかと錯覚してしまうほど。そう信じているアメリカの牧師がいると聞いてびっくりしましたが。King James Version=ジーザスが読んでた聖書だと。
そして神の言葉を神の子=光の子として生きると言う事、
その実際はどうするのかなど聞いた事も無い時代でした。
トラーに書かれた内容が伝えられないと分からないからですね。
華々しいステージでの様々なパフォーマンスの世界、
集っている人数の多さや、どの位の人にジーザスを伝えられるか、どんな活動に参加して捧げているか、どれだけの人に影響を与えている大きなグループなのかで、神の栄光や祝福、業をしているなどで測られる。
そんなものをアメリカやカナダでは見たと思います。
イエシュアはユダヤ人です。イスラエルの神であり、救い主を
信じると言うことは、これほどユダヤ的要素であるものに
繋がる事は無い事なのです。
外国人が、日本に移住して日本の文化、日本の生活習慣、
日本のスタイル、畳の部屋に住む様に、全く違った文化=天の国の文化、今まで聞いたことの無い文化の中に、イスラエルの神を
信じた人達は生きる事でもあるのです。
イエシュアはヘブライ人です。創造主は地上で神の国をそのまま表す国、民族としてイスラエルと言う国を選び出しました。
異教の神々に仕える民族とダントツに違う、境界線を引き、
どの神に、どんな生き方に戻れば良いのかと言う”灯台”としての役割。そして神の国=天の国の詳細、生き方を表す
地の塩、世の光としての役割を与えました。そして、同じイスラエルの神、イスラエルの神に繋がれた人は、神の言葉=インストラクション=トラーを生きると神が宣言し教えているのです。
その長子がイエシュア。イエシュアの御足跡をたどるとは
WWYDとは、一体何を意味していると思いますか?
イエシュアが生きたのは、皆に教えていたのは、永遠から太古から変わらない婚姻契約=父の言葉=トラーなのです。
福音書以降を翻訳で読んでもその事実がはっきり記されています。書いてある事を自分の考え、人の教えに変換しないで読めば
見えてきます。
しかもイエシュアの教えの方法、たとえ話を通して教えるとは、当時のパリサイ派の流儀、教育方法でもあったのです。
過越や仮庵の祭りの祝い方の流儀や作法なども、パリサイ派の
伝統を受け継いでやっていました。
だから、過越の祭りの中で”4つの杯”を頂く”順序”と言う晩餐の儀式を通して弟子達に処刑の意味を教えたのです。
カトリックでは聖餐式として、種ありパンとぶどうジュースで毎月第一日曜日にする事に変えられてしまいましたが、
そのオリジナルは過越の晩餐の中でイエシュアがを、処刑される前の日の晩の過越の祭りでされた種無しパンと贖いの杯の儀式は、”イエシュアが全世界の人達の贖いとして与えられ砕かれた体、過越のこひつじの血”として弟子達に教えたものです。
私は以前そんな意味など1つも理解せず、知らずにいました。
1コリント 11:23-35の箇所を読んでも、それが過越の晩餐で行われる儀式である事にも何十年も気がつかないまま読んでいました。
それどころか過越の祭りもシャバットも知ら無いまま、
イエシュア信者であったのです。
これは、過越の晩餐の時にイエシュアが自分でいきなり
アドリブで編み出した儀式では無いのです。ユダヤ人なら誰もがやっていた、そして今もやっている伝統の過越の晩餐の儀式なのです。
異邦人は、パウロがエペソ2:12-17で書いた様に、イスラエルとも、ユダヤとも肉的生まれ、国籍とも無縁、何の関係も無い、トラー=婚姻契約の中、神の国の教えにも全く馴染みなく
育って、神の言葉=神の国に属する人の生き方に全く教えられた事もなかった異邦人であった人達とあります。
アメリカ人が、初めてアジアの文化に触れて知りその違いに
気がつく様に、異邦人も神の国=聖書の文化=イスラエル=
ユダヤ=イスラエル=イエシュアの国=地上で天の国を代表、
表す国とされた人達、天の国の文化の生き方は異物、
馴染みが100%無いのです。
馴染みが無いから違和感、拒絶感を感じるだけなのです。
生まれた時から神の国の文化に馴染で生きたらそんな事は
1つも感じないでしょう。日本人が日本の国で生きても
違和感無い。生まれた時から日本人で日本に生活するから、
それと同じです。畳にお風呂に、盆暮れ正月、おみくじ占い。
冠婚葬祭、生まれた子供のお参りや節句にお寺、神社どこでも
行ってなんでも拝む。家の中に異教徒の印、シンボルをたくさん飾って祝いごとの祝宴をする。
でも、イエシュアを信じたら、イスラエルと同等の神の国の
共同相続人、1つの神の国の家族の一員となったと書かれて
います。
異教の神々の教えを生きる世界と、イスラエルの神に聖別、
分かたれた人の生き方=それが神に造られたオリジナルの人の
生き方であるからです。
世界と分かたれている=イスラエルの神に聖別されているとは、”異教の神々の教え、文化、生活習慣に生きる”事とは、
大幅に異なる特殊な独特な特徴がある生き方に移行したと言う
事なのです。異教徒の教え、生き方の数々を知らない間に引き続き取り込んで、生きていてもそれが何か気が付く事が無いのは
トラーを知らないからです。トラーは異邦人には関係無い教えと教えられてしまってそれが神の言葉だと信じているから、
自分の中に異物、汚れを取り込んでも気がつかないのです。
それがイエシュア=本物の主人に繋がれた、偽の神々から
買い戻され、鎖を切られて神の元に引き寄せられたと言う意味なのです。ヘブライの聖書では。
世界の中から神に呼び出されて、神の招き、契約に生きる事に
応答して取り出された人達=1つの家族は、天の国の文化、
生き方、生活習慣、記念日を生きる様に神がデザインされたのです。そんな教えには意義あり!夫の言う事ではなく自分の目の好むところ考えに納得出来る事を生きます!と言ったら、一体
どうなったか?その詳細が預言書に事細かに書かれています。き け ん=危ない。夫を離れて、神の家に属するものではない
生き方を選択しては危ない。婚姻契約に書かれた生き方に
戻りなさい!それが預言者の一貫して同じメッセージなのです。黙示録までそれは変わらないのです。
だから、世界の人々とはダントツに際立って違う生き方、
生活スタイル、衣食住文化、そして記念日など、数々違いがあるのです。そして異邦人には、神が教える神の国の生き方が文化が
生活習慣、記念日が、異物に感じるのです。馴染みが無いから。神の子らに与えられた印、教えの数々は、異教の神々のそれとは異なるからです。
これは、一年中暑苦しい黒い長服を着たり、大きな厚ぼったい
黒い帽子を被ったり、女性が結婚後髪の毛を剃ってカツラを被るとか、土曜日には、遊べない、電気のスイッチも押せない、
テレビも見れないとかそんな生き方をする、そんな事では
無いのです。それらは人が作った神の言葉のエッセンスを曲げた教え=イエシュアも戒めていた”人の作り出した教え”です。
でもシャバットに余計な作業、修理、仕事、勉強していたら
シャバットを生きる意味が消えてしまうのです。
神が言われた事=止まりなさいを止まらないまま普段と同じ
活動、作業、仕事をし続けたら、神の造られた特別な時を
神と共に、人と共に生きれない状態になるのです。
でも異教の国に住んでいたら仕事があるかも。ジレンマ生まれますが、シャバットが何かを
知って、限られた時間をシャバット=止まり、神の教える大事な事をガードし生きる事は出来るのです。
特に今は完全にロックダウン状態ですからね。
続く