ユダヤ人で代々厳格なユダヤ教の家庭で育ち、幼い頃から
家庭で、学校で、地域の集まりでずっとトラーをヘブライ語を
原典原書から読み、学び続けて来た人達が、トラー、預言書に
書かれた救い主に出会っている。
この数は、過去のどの時点よりも多くの人達が今呼び出されて
いる現象が起きています。神が預言された通りの事は必ず起きる
から不思議でもなんでも無いです。
神が神の時を握り、計画し、定められているからです。
絶対にブレない。眠ってない。ぼんやりしてない。
今の状況も同じです。
そして、アラブ人、イスラム教徒も。
そして、異邦人クリスチャンでも、神の言葉は永遠である、
トラー、預言書=イエシュアである事を発見している
多くの人達が世界の中から呼び起こされているのです。
本物の神に、本物の神の言葉に、本物の自分、神の似姿に
造られた人間の生き方、命、関係の和解、修復、そして神の中=
喜び=エデンに住まうことを取り戻すために。
1つの家族の修復への道のり、それが福音だからです。
イエシュアや、使徒達、パウロが伝えていたのは、生きていたのは、伝えていたのは、今までとは違う、聖書にも書いてない
別の新しい教えなどでは無いのです。
この誤解は必ず解かないとならないものです。
神が語る永遠の真理=神の言葉が塗り替えられたら真実が
見えなくなるからです。
パウロも同様に、あの地上に来られたイエシュアが、トラー、
預言書のイエシュア ハ マシアと気が付いたのです。
それが、あのイエシュア、神ご自身が、トラー、預言書を
壊し、否定し、終わらせたと言う教えだと、聖書とは全く辻褄が合わないことに気がつけば見えます。
なぜなら、キリストの愛と言うなら、その愛って何でしょう?
なんの愛の事を話しているのでしょう?
愛=アハヴァ=婚姻契約=シナイ山で文字として人類にイスラエルを代表として与えられた永遠普遍の保証、約束、契約=
ブリット=の中に記されている説明されている神の定義する愛
をクリスチャンは”愛”と言っているのです。気が付かなくても
それ以外の神の愛はどこにも無いから。
イエシュア=愛=神は愛=アハヴァ=トラー=婚姻契約に
書かれた詳細の事を聖書では”愛”と書いて説明しているからです。
ユダヤ人が世界に散らされた後も、トラーを幼い頃から学んで
来たユダヤ人達が、救い主=イエシュア ハ マシアに出会うと創世記から、黙示録の全てが1つに繋がり見えると皆言います。
福音書以降は、別の新しい契約や教えなどと言う西洋神学が言う
様な事は決して言いません。それは何故か?
トラー、預言書を知っていれば、聖書のテーマは永遠に変わら
ない、太古から語り継がれた同じ福音、だから別の福音でなど
書いてないので、そんなトラーを知らない異邦人の作った教え=神学が聖書では無い事がはっきり分かるからです。
あるユダヤ人はヨーロッパやアメリカなどの諸外国で生まれ、
トラー、預言書をヘブライ語言語で、ヘブライ思索で学ばない
家庭で育った人もいます。
そうすると、西洋宗教の教えから入ってしまうと、それが聖書かなと思ってしまうそうです。
そして、西洋宗教神学や、西洋哲学の思索に浸かって考える人は
トラー、預言書=イエシュアと言うことが見えないと言うことが
あるのです。
だから、ユダヤ人で、西洋哲学神学を土台に語る場合、
神学の影響を受けている、その枠で聖書を眺めているだけです。
でも、ユダヤ人は、幼い頃から伝統として、シャバットや
神の祭りをして来ました。
ちょうど、日本人が盆暮れ正月の行事を家族や親戚とするのと同じ感覚です。
どの行事や祝い事、記念日の裏には、神々への祈願があるのです。盆暮れ正月、豆まきや七五三、ひな祭りやこどもの日、
それ以前に、お宮参りやら、お食い初めやら、行事をやって
いるでしょう。それは意識の中になくても、その行事の裏に
ある神々に祈願すると言うものでその儀式や行事があるわけです。
ユダヤ人達は分からなくても、どこかでモーセの五書を聞いているのです。先祖代々染み付いているものがある。
だから、宗教的なユダヤ人ではなくても、モーセが神から直接
与えられた永遠の婚姻契約を否定することなど決してないと
知っている人達がいるのです。
友人も、スタートはクリスチャングループのバイブルスタデイで
福音書を読んでいるだけで、トラー、預言書のイエシュアだと
分かって、救い主に出会ったそうです。
でも神学の教えで、違うことが書いてあると復唱していた所、
ユダヤ人の友人に、”モーセ=神の預言者を通して神が人に
与えた神の言葉を、神が否定するなんて事は天が許す訳ないでしょう?”と指摘され諭され、それでハッと真実に気が付いた話をしてくれました。神からの掲示であったと言います。
そして、自分でヘブライ語原典聖書から直接学ぶうちに、
その確信=神の言葉は永遠、創世記〜黙示録の中は全部1つに繋がり、どの箇所も互いに相反するものなど書いてない!と言う事実を突き止めるのです。
そうでしょう。愛と言う言葉はトラーに書かれていても、
福音書以降に書かれていても、同じ意味、内容、定義だからです。神の言葉の意味、実態は時代ごとには変わらない事が
ちゃんと聖書に書いてあるから疑いの余地が無いのです。
違う福音を考えるとは、聖書に書いてある原典聖書に書いてある、聖書の辞書であるトラーを原典から学ばないから
分からないというだけです。辞書無しに外国語を学ぶのと
同じ。聖書=辞書=トラーではなくて、人の作った神学の教えや
解説を聖書の辞書に仕立て上げてしまったのです。
自分創作の辞書=トラーとは異なる人間の作った教え、言い伝えを辞書=土台にするから、聖書があらゆる方向に
曲げられて語られて解釈されてしまうのです。
神の言葉=トラー=婚姻契約、律法と異邦人の世界では訳されていますが、これは、神を信じていない人が、神の前に認められるため、”義”を得るためにあるもの、生きるものでは無いのです。
使徒2章の出来事と、出エジプト、奴隷から脱出した後に
迎えた、シナイ山での出来事が同一である事に気がつけば
見えます。
シナイ山で初めて神から永遠普遍の婚姻契約を文字で神が書かれたものを手渡された出来事がありました。
出エジプトも、紅海が割れた出来事も、そしてシナイ山で
天が直接地上に降りてきて、神の臨在、声、栄光を人々が肉眼で見て耳で聞いた出来事。これが最初のシャブオート
<ペンテコステ>の出来事です。
これは、ひっそりでは無く、全世界が知る出来事であるのです。
だから、出エジプトでの出来事を聞いた人達が、イスラエルの神がされた業の噂が広まり、その話を聞いてイスラエルに対して恐れをなした事がちゃんと聖書に記されています。
エジプト=偽の神々と偽の王、偽の人間の自己像と、人生ゴールをインプットされ続けてきたエジプトでの奴隷状態から
贖い出され、救われた人=神の家の花嫁になった人が受け取ったものが”トラー”=婚姻契約なのです。
この神が語る事実に目を留めたら見えるのです。
もし神の永遠普遍の言葉=トラーを否定し、神学を尊重すると
宣言し、主張するなら、その時点で神とはずれた場所に居ると気が付かないとならないのです。周波数が全くずれて、電波が届かない場所で別のチャンネルに繋がっている状態なのです。
それは。何故神の言葉を否定し捨てて、神に造られた被造物でしか無い人間の言葉を神の言葉の上に権威として置くの?と
考えれば、ズレが見えてきます。
人間が編み出した、考えた、創作した神学を神の言葉であると誤解しているだけなのです。
続く