ガラテヤ3章23−24 安全圏の中に救い主に出会うまで、出会った後も保護されるため | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シナイ山で神が直接降りてこられて、山の麓に居たイスラエルと

異邦人達は、皆神の栄光を肉眼で見て、声まで聞いた。

 

しかもモーセは直接神と顔と顔を合わせて会ったのです。

そうして受け取った”婚姻契約書”なのです。

 

使徒2章よりすごいことが起きたのでしょう。

使徒2章は、この再現。異邦人も同じく、もれなく、婚姻契約が

与えられている証拠を示して下さったのが、あの2000年前の

昇天後初めてのシャブオートの出来事なのです。

初めて、聖霊が人の間に住み始めたスタートでは無いです。

永遠からインマニュエル、在りてある、過去、現在、未来

変わらず人と共に住まうお方である神であることは

トラーの聖書のページの一面にずっと綴られているのです。

その事実、言葉に気が付いて聖書を読んで行けば、神の言葉の

メッセージが天から直送ダイレクトに自分の中に入って来ます。

 

婚姻契約は、贖われていない、救われていない状態に人に与えられたのでは無いものです。救われた人=神の花嫁=最高の宝、

神の懐、肌身離さず持ち歩く宝とされた人達へ与えられたと、

ヘブライ語で語られているのです。

 

その身分を与えられた人達に与えられたのが、トラー=婚姻契約だと聖書には書かれているのです。翻訳だと見えないですよね。

神に取り、一人一人がどれほどの価値ある存在である事が書かれているのか、それはヘブライ語の中ではクリアーに見えるのです。そこがオリジナルの違いです。

 

でも同時にイスラエルの神を知らなくても、神の言葉に触れて

行けば、本物の神に出会う、出会うまで安全に保護されて守られると言うことが書かれているのがガラテヤ3:23、24です。

世の中にそんなに曲がらずに、美しい生き方、麗しく生きて

人を大事にし、神のアハヴァを生きる人がいるのは

それでもあるのでしょう。

 

そして、トラーは終わりなんて聖書のどこにも、ただの1度も書いてない、神はそんなこと言ってなどいない事実に目を留めれば神の語る言葉の真理に目が開かれる。開かずの間の扉が開く。

 

ガラテヤ3:23 

しかし、信仰が現れる前には、わたしたちはトラーの下で
監視されており
<神の言葉を生きることの中、安全圏の中で保護されて>
やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。
<神の保護 守りの中に安全に封じ込められた置かれる>
24このようにしてトラーは、信仰によって義とされるために、
<行いにより義とされるなんて書いてない>
たしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

 

花嫁とされた人が、花婿に嫁いだらどんな生き方をするのかの

詳細の全てが書かれているのがトラーなのです。

違いが見える。誤解が解ける。トラーは奴隷に与えられたものでは無い。神の家=天の王国に住む人達の姿、神の宝にされた人、その人達の生き方の全てが書かれたものが、トラーであるのに、それを異邦人は理解せず律法で終わり、呪いと教え続けてきました。福音書〜黙示録は100%トラーなのです。

 

トラーは、救われてない人のためにあるものではない、

神の言葉を生きて義と認めてもらおうとアピールするものでものない。そんな意識で神と関わる事やめて!

神に認められようとする目的のために神の言葉を生きるなんて

ずれているよ!と神が言っているでしょう。

聖書にそれが書いてあるのです。それが”偶像礼拝”の根、性質であるとが聖書にずっと書いてあるのです。

 

神との関わりの出発時点、意識が始めからずれたら、うわべだけの関係になり、本来の関係=安息に入れない。

 

 

トラー、預言書に書かれた事を理解すれば、それは

クリアーに見えてきます。

 

義とされるために、トラーを生きるのでは無い。

義とされた人達=贖われた人としての生き方全てがトラーに

書かれているのです。聖別の意味が書かれている。

イスラエルの神と個人的な関係、神との関係に入った人が生きる=神が語る、神が定義する神が創造された神の似姿である人間の生き方が記されている契約書、それがトラーです。

 

数々に折り重なった誤解を解いていくと、何がどうなのか

見えてきます。

 

 

 

 

 

 

 

続く