なんのために神の言葉があるのか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ユダヤ人の正統派ユダヤ教の家庭で育つ場合、神の言葉でも

何でも無い、イエシュアが戒め、正していた”口頭トラー”

人の編み出した掟、教えの数々を生きさせられ、辟易するそうです。

朝起きてから寝るまで、そんなのどちらでも、どうやっても

良いことを、人の教え、ルール、規則通りに、繰り返しやらないとならない。

 

日本人で言えば、箸の上げ下ろしの細部までルールがあると

言う感じの細かい事です。神の教えの中の自己選択の自由を

生きられなくさせてしまう教え=それが人間の教え=

口頭トラーです。

 

そんなルール、掟リストをこなして毎日過ごさなければならないのなら、普通の精神ではいい加減嫌になるのが当然だと思います。子供のうちは、親や周りに反抗出来ないけれど、

大きくなれば、自分で考えられる事を始めたら、もうたくさん、一抜けた〜と言う人が出てくるのは当然です。

 

神の言葉の真理=人のエッセンスぴったりそのものを生きる事を教えられるのではなく、人の作った教えを生きさせられるから

窮屈、苦痛、別の教えの奴隷になってしまうのです。

 

イスラエルに行くと、多くの正統派ユダヤ教徒の人達を見ます。

暑い夏の日も黒い長袖の上着と長ズボン。そして大きな暑くるしい帽子を被っている写真などイスラエルの写真、画像などで

見ると思います。彼らのためにバスの中は冷蔵庫の様に

キンキンに冷房がかけられています。

アルミニュームたっぷり入った”デオドラント”を塗らないと

異臭がするくらい、大汗かいてあの服や帽子を着ている。

 

黒い服は、中世捕囚の地、ヨーロッパでの発名物。

”神殿”が崩壊された事を嘆いて喪に服している印の黒い服です。黒=死です。日本人も喪服は黒を着ますね。

 

祭司が着る服は白です。そして藍色、紫などの神の義やその他

意味を表す色を着ます。もちろん祭司の服は、神殿で仕える

レビ族の祭司以外はその服は着無いのですが。

 

そして、正統派ユダヤ教の家庭では、女性は結婚すると髪の毛をそり、坊主にされる。坊主頭にカツラを被っているので、

皆同じ髪型に見えます。

坊主にする=他の男性に魅力的で無い様にと言う理由です。

これら全て、聖書の教えでもなんでもないです。

 

そしてシャバットに電気をつけたり消したりしない。

エレベーターのボタンも押せない。

テレビも見てはだめ。電子機器もつけてはだめ。

掟リストを生きる=シャバットになってしまっている。

もちろん、パソコンや動画見て、夫婦や子供、家族と過ごし時間がないなら、それは本当に邪魔でもあります。

 

正統派の学校に通う子は、シャバットに遊びに行っては行けないんです。観光地に遊びに行った事がバレて退学になった友人もいます。とにかく厳しい。本末転倒、掟リストをこなす世界。

これって聖書でもなんでも無いです。

 

創造主は、宗教を造って、厳しい律法を与え、それを人に生きさせている様な事などしません。

人を上から見張って、どれほど忠実に神に貢献、捧げ、忠誠心を誓って生きているか見張っているのでもない。

 

神が100%全てを人のために造り与え、子供らが安全で喜び

溢れて、命を生き生き生きるために、神の教えがある。

神の言葉=神が造られたエッセンス通りの人の命、神の似姿を

生きる内容、インストラクション、教えが神の言葉として書かれているのです。

 

そして、神の言葉は神ご自身であると書かれています。

命の源=創造主と繋がるいわゆる命綱、へその緒。

 

掟リストをこなすことが目標、そんな発想自体が律法主義。

そして、神に認められると言う意識=”偶像礼拝”の思想の根なのです。

神のために全てを捨てて、一番大事な物を犠牲にして、神に

全てを捧げる。

それは、偶像礼拝の根=モレク神に自分の子供を生贄として」捧げた様に、その意識と偶像礼拝は同じと聖書には書いてあるのです。

そんな偶像礼拝の意識で神に近く事は出来ない、神のデザイン通りの関係も結べないと書いてあるのです。

 

なになに教〜、〜教=イズムとは人の教えが混ざったものを

〜教と言います。

 

現代のユダヤ教の中でも、色々あります。

私の友人の近所にあるグループは、異邦人にとてもオープンで

あり、誰でも歓迎してくれます。

教えている内容は、もちろんヘブライ語のトラー、預言書です。

金曜日の夕方と土曜日の朝、1時間位、聖書朗読、祈り、賛美などがある位です。

別にこれは、聖書の教えだから会堂に集まっているのではなく、”伝統”の中で生まれたものです。

エルサレムにしか神殿が無いので、自分たちの住む地域、町で、

神殿の中の様に人と交わったり、トラーを読んだり、祈ったり

できる交流の場所が欲しいとラビ達が編み出したインヴェンションなのです。

 

普通はトラーは家庭で教えるけれど、古代はそれぞれが聖書を

所有することも出来ないし、町の中で1つトラーや預言書を

所有し、トラーを熟知する人として成熟したお手本でもある

長老達がトラーを週ごとに読むということが行われているのです。

イエシュアもシャバットに会堂でトラー、預言書を読んでいた

記事があります。

 

友人の家のすぐ目の前にあるユダヤ教のグループは

”超ウルトラ、超正統派ユダヤ教”のグループで異邦人などとは

絶対に交わりません。どちらのグループに対しても、決して

”イエシュア ハ マシア”を信じていることは言えないのです。

 

他にも、2000年前に来られたあのイエシュアでは無い、

別のラビを”救い主”と信じているユダヤ教のグループもあるので、一概に皆同じ態度で同じことを考えている訳では無いのです。

 

そしてその中の人達でも、家庭をしっかり守り、生きている

ユダヤ人達もいるのです。皆が皆、恐ろしく戒律的で厳しく生きている訳でも無い。神でもないただの同じ人間なのに、他者を外側から見てああだこうだなどとは判定など出来ません。

 

クリスチャンが全て同じことを考え、同じ喜び、解放、真理を

日々体験して生きているのだと言えないのと同じことなのです。

 

そして、ほとんどのユダヤ人が聖書など読まないのが今の

現状です。

 

これはクリスチャンの場合だろうと同じ事だと思います。

神の言葉、インストラクション、教えでも無い、人の作った

ルールや教えを生きさせられたら同じように辟易し、苦痛以外

の何物でも無いものを体験させられてしまいます。

 

救い主を知る=これは素晴らしい体験ですよね。

個人的に神と出会う!でもその後が大事なのです。

そこから先を教えてもらう必要があるのです。

関係は、自動的に育まれていかないからです。

神を知ると言うのは、聖書では哲学の世界の様に知識を知ると

言うことではない言葉で書かれています。

関係=婚姻関係を表す言葉でもある、深い一体、裏も面も

内側から知り尽くす、体験的な関係を表す言葉でずっと

書かれているのです。

だから、聖書には、婚姻契約用語がずっと書かれているのに

翻訳でも気が付くはずです。

愛、一体、娶る、花嫁、姦淫、裏切り、etc etc

聖書が”婚姻契約”の形態で書かれているからです。

 

神を知る=内側の一番近い究極の親しさの関係の中で知る

には、やはり神の言葉を知り続けなさい、探求し続けよと

言われている通り、ずっと一生と言う時間をかけて知っていく

過程があることが、聖書にはっきり書かれています。

人との関係でも知り合った、結婚した。でも対話や交わり

様々な事を通して関係を育まない限り、結婚しているのに

実態は結婚しているけど、何十年も一緒の家に住んでいるけれど、関係の実態は独身同士のまま、お互いのことを

分からない、何を考えているのか、何を感じているのか、

何を思っているのか、伝え合うコミュニケーションも

ずれている。お互いの存在を交流する、会話のキャッチボールをする事もなければ、同じ家に住んでも遠く疎遠な関係のまま。

 

結婚式をあげました。入籍しました。

その後自動的に二人の関係が豊かに育つのでは無いこと

誰でも理解出来ることです。

神との関係も全く同じ。

それが聖書に書かれているのです。

神を知る=神の言葉=神ご自身。そこから対話をする事を

求められていることがずっと聖書には書かれています。

 

続く

 

超正統派ユダヤ教の人達はどこの国に居ても同じ服を

着ています。

普通のユダヤ人は普通の洋服を着ます。

帽子の大きさで格の違いがあるとか。

靴下の中にズボンを入れているのがウルトラオーソドックスと

聞きました。

 

 

 

 

 

政党はユダヤ教の女性は結婚したら坊主になりカツラを

かぶります。神の仰せ=トラーの教えではありません。