神の花嫁にされた人達生きる姿 イスラエルと異邦人は1つ家族 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ユダヤ人、イスラエル、トラーを生きている人達と聞くと

厳しいルール、律法主義的、戒律的な命の無い生き方をしている人、又はトラーを生きるとは、神の前に行動により、神の前に

義とされよう、認められようと人している人達の生き方であると考えると思いますが、全然違います。

神の仰せは蜜より甘い。神の仰せを生きることを何よりも

望むと言ったダビデは、律法主義者なのでしょうか?

そしてダビデはトラーだけを生きるユダヤ人です。

 

度合いや内容は違えど、どの世界でも全く同じ事だと思います。

多くのクリスチャン家庭や、又は宣教師や牧師の家庭で育った

人達の中でも、信仰を失う話が多くあります。

それはそれぞれの親の前代から引き継いできた思考回路、

生き方や、考え方、歪み、ゆがみ、ズレが関係あるのでしょう。

 

クリスチャン=100%喜びに溢れた問題無しの生き方を

する人達?聖書を読めば分かります。皆エデンから出て、

どれだけ夫婦、兄弟、家族が分裂し、破壊し合い、仲違いして

傷つけあって来たのか。自分の生き方や個人の人生歴史を振り返っても皆共感する事が出来るはずです。

 

でもその最後は1つに戻る、修復が書いてあるのです。

2つでは無い。2つでは虚しい、悲しい、侘しい、欠けがある。

その19世紀に作った人造神学の教えは聖書とは違う。

聖書のエハッド=1つ、シャローム=欠けの無い完全な1つの

家族の姿とは真逆、神の語る真実では無いです。

なぜ?それは神のデザインとは異なるエハッドでは無いから。

真実では無いから。単純でシンプルな真理です。

 

そして、騙しと、偽の自己像を生き続けて来た。

それに気が付く事。創世記の記事をずっと読めば、

それがはっきり書かれています。

 

神に造られた本物の自分を取り戻す修復の道のりを生きることがずっと書かれています。

奴隷から贖い出され、新しくされた人になった事実であっても、自分の以前の主と共に死んだ人の生き方の全ての領域は、

いっぺんに全部変わらない。脳回路の記憶の中に残されて、その意識が自分の願いとは違う行動、思索に引っ張るから。それがパウロが言った自分のしたいと思うことを妨害、出来なくする力

です。過去の自分の染み付いた記憶=脳回路=生き方、思索が

邪魔する。

 

だから、神の記念日が置かれているのです。ずっと新し人で

生きる事をインプットし続ける。

偽の自分の脳回路=神の目から見ることに切り替えること

これがきよめのサイクルとして書かれているのです。

だからイエス様信じました〜と一言言うだけでは、脳回路の記憶が全部リセットにならないのです。実際の生き方、思索を変えるには、時間がかかるから。日々の思索、行動を神の言葉に

照らし合わせて全部リセットし直し続けるプロセスが必要なのです。

荒野の40年の旅路はそれでしょう。それでも新しい人に

切り替えない人達は全て死に絶え、たった二人、ジョシュアと

ケラブが第一世代の中で、神の目から見る=割礼を頭脳にしっかりと刻んだ人達が約束の地に入った事が書かれているのです。

 

今の日々、シャブオートまで、新しく初穂に連なった人の生き方を回想し、日々点検し、新しい人で、毎日神の前に、

寝ても覚めても本物の自分を生きる=神の言葉に照らし合わせて生きる新しい1年を生きる準備をする日々なのです。

 

新しい人で生きる事を知り、奴隷の頭脳、脳回路離脱をする旅路が福音のテーマの中心でもあるのです。だから今日こけても

めげない。すぐに気が付く=ズレてるよ!あなたでは無い

エッセンス取り入れて行動した、考えているよ!と切り替える。

この繰り返し。

 

だから、出発点=あなたは救われても所詮今日も罪人と言う

神学の教えは、聖書の福音の事実からズレているのです。

神の業に目を留めて信じて前に進む。自分の感覚、さとり、感情に頼れと書いてありますか?聖書にはその逆が書いてあるでしょう。自分のさとりに頼るな。神の業だけに目を留めて信じて進めと書いてあるでしょう。

 

神の言葉、福音とは違う内容の別の福音を教えられてしまったら再び奴隷=別の教えの奴隷、たちまち神との深い関係にある喜びも失い、方向性も失い、神のために犠牲にならないといけない

意識にさせられ、自分の好きな事楽しみも捨てないとならない。

好きなことを職業にしてはダメと牧師に言われた友人も

いますが、自分の適正無視した事をすることほど、神の前に

ズレた事は無いのです。自分じゃ無い偽の自分を生きる事だから。

 

普通の生活、友達との楽しみや、クラブ活動も捨てて、誰かの

編み出す宗教活動や目標、理想、スローガンに常に勤勉に参加

しないとならない、それが神を愛することの証明などと教えられたら、それこそ、神の言葉とは違う生き方、意識、固定概念を

植えつけられてしまうのです。

神を愛する=神の言われた言葉を生きると書いてあるでしょう。

このズレた意識を切り替えるのは本当に大変な時間がかかる。

罪悪感を伴う苦痛がある。

 

信仰を持つ親に、生まれた時から”あなたは罪人、罪人なんだからね”と四六時中、寝ても覚めても神の語る本当の”あなた”とは

違う歪んだ自己像を植えつけられて育ってしまったら大悲劇。

それは完全に神の前に虐待をしているのです。

神の与えた本当の自分である人格否定され続け、又は絶え間ない親同士の喧嘩や口論や、もしくは暴力までされたら、子供としての楽しみや喜び、安心もなく、戒律的に育ち辟易していたと言う話を友人から聞いたこともあります。

 

それは単に不健全な環境、関係、家族の中に育ったと言う弊害。

信仰家庭だろうが、普通の家族であろうが、神のデザイン、

エッセンスからズレたら同じく汚染、破壊されてしまうのです。

 

そうしたらそんな不健全な生き方をする親から、歪んだ偽の神像と、歪んだ人間の生き方を教えられてしまったら、神なんて

要らない、そんな教えが無い何も無い家庭に育った方がまし

だったと言っていました。神の一言でその親の呪縛から逃れられなかったからです。しかも父母を敬えと言われたら?

これは神の言葉の意味違いを誤解して教えられているのです。

 

それはそれぞれ、どんな信仰だろうと、自分が先祖代々背負って

受け継いで来てしまったズレた生き方、考え方を継承する

親や親族や環境があれば、ズレた影響を与えられてしまうのです。

 

しかも真実を教えてもらえるはずの場所で、信仰のリーダーからどんな形の虐待でもされてしまえば、徘徊するほど精神破綻を

してしまうし、そんな内容の裁判は世の中隠されているものも含め、無数にいくらでもあるのです。

事実は小説より奇なりの世界なのです。

 

それほど、人はエデン=喜び=神の中から飛び出て、神の似姿に造られた人間の生き方とは遠く遠く離れてしまった。

神の言葉を捨てたら、人はどんなズレた方向にも行ってしまうからです。神がそう警告しているでしょう。神の言葉=トラーを

捨てたら迷い出ると。

 

この世界、霊的戦いとは、得体の知れない、見えないふわふわしたものに襲われる、攻撃されるのではなく、実際に誰かを通してなされる、”ラー”=ズレ=神のデザインとは異なる言動、

行動で傷つけらる、破壊させるのです。又は自分の中で蛇の嘘、

神の言葉を疑わせる事を考え続ける事で、死にます。喜びも元気も正気も失せる。

 

だからイエシュアが、人の内側から出るものが周りの人を

破壊し、汚染すると言われたのでしょう。

 

続く