ユダヤ人のラビ達も知らない”砕かれたマッツア”の本当の意味 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

古代のユダヤ人達は、預言者達は、イエシュアを知っていた、

トラーを学び、神の家の中でイエシュアの詳細、新しくされて

いる=義とされた人の実態とその生き方、修復の仕方をちゃんと教えられていたのです。

 

神の神殿の中に置かれた全てのもの、素材、オブジェクト、色、寸法、又は1つ1つのコバーンの意味する所を知れば、

それはイエシュアを、神との関係、そして私達を表しているものであります。

 

そして、私たちが新しくされた人であり、神の家に生きる人は、ハメッツ=要らないものを持ち込んだ状態の頭脳では

家の奥の間のテーブル=祭壇=一番親しく神と人と交わる場所には入れないよ!と言う事を教えているのが神の家なのです。

 

コバーン、生贄と訳される不適切な訳ですが、その1つ1つも

神の贖いの業で私たちが義、新しくされている、神に受け取られている、かぐわしい香りの喜ばしい存在、最高の宝である

事実が語られているのです。ちゃんと知れば、もうひれ伏したくなる様な神の愛の広さ、深さ、麗しさ、美しさ、喜びが

書いてあるのです。神の目から見る私たちは、人が見る=あなたはどんなにダメな人とどれほどかけ離れたものであるのかも

知ることが出来ます。どちらの言葉を信じますか?神の言葉?

それとも人が伝えるあなたは誰か?と言う問いが、神から

与えられているのです。

 

新しくされた人を以前のハメッツ=以前のパン種をそのまま取り入れ続けて生きてはダメ、別物の生き方に変身して元の泥まみれに戻りますよと言うこと。

足を洗ったイエシュアの行為もそれを表しているものです。

 

新しくされてても、この世の旅路で泥がつく。だからすぐに

洗う。泥を取り入れ続けない。

 

天にある実態を地上で体感し学習する。神の臨在が在る場所。

今は神殿は壊されていますが。一人一人が神の宮と言う事を

実際にエルサレムに在る神の宮で教えられていたのです。

それがトラーに書かれているのです。

 

1世紀、過越の祭りで処刑されたイエシュア。

トラー、預言書に書かれた約束された”救い主”である事を

知ったユダヤ人達の数は膨大でした。

1世紀のイエシュア信者は殆どがユダヤ人だけなのです。

ナザレ派は殆どがユダヤ人なのです。異邦人は極少数。

 

どうして、それが今の様にユダヤ人は救い主を拒絶しているのか

それは、長い歴史の中の迫害と、トラーを捨てて生きよと強要された事、複雑な複数の理由があるのです。

パウロやペテロ達も同じです。トラーを生きて、救い主=

イエシュアを宣言したから、ローマに処刑されたのです。

 

でも、同時にどの時代にも、トラーを生きたイエシュアを知って

生きてた人達は創造の初めからどの時代にもちゃんと神が

確保しているのです。

 

そうでなければ、本物の福音を伝える人、聖書を書き記す

預言者達は存在しなかったと言う事になってしまうからです。

 

過越の晩餐の儀式の中で行われる子供達に向けたゲームが

あります。

これはマッツアを3つに重ねて、その真ん中のマッツアを

半分に砕いて、半分を白い布に包んで家の中のどこかに大人が

隠して、子供達に後で探させるゲームなのです。

 

この3つのマッツアを、ユダヤ人のラビ達も”デザート”と呼び、本当の意味を知りません。

でも、この3つのマッツアが何を意味しているのか、

それぞれラビにより説があります。

なぜ、真ん中が砕かれているのか?一度隠され、後からまた

現れるのか?

 

クリスチャンなら分かるでしょう。

砕かれた体、イエシュアの最後の晩餐、過越の晩餐でされた事

クリスチャンは知っているはずです。

 

続く

 

マッツアを3つに重ねます。

真ん中のマッツァを2つに砕いて、半分を白い布に包んで、

家の中のどこかに隠します。後で子供達にそれを探させるのです。

 

 
砕かれたマッツア。罪、咎が何も無いマッツアであるイエシュアが私たちの過越の子羊として屠られた。
弟子達に、マッツアを砕いて、”これはあなた方のために
砕かれたわたしの体”と説明し、贖いの杯を飲んだ、
あの夜の過越の晩餐の出来事が書いてあるのです。
過越は、イエシュアのされた業、福音そのものなのです。