イエシュアがされた過越の最後の晩餐の儀式が現在もユダヤ人の間で継承されている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

天候が悪くても良くても基本閉じこもり生活。

人はやはり誰かと共に生きる様に造られている事がつくづく

体験的に再認識できる日々です。

 

家族はいつもより不規則、深夜過ぎまで仕事をし続けるみたいな

生活ですが、なるべく普通に過ごそうと思います。

子供達もネット上のスクール授業に慣れて来たよと聞きますが、

日本ではどんな感じなのか。普段からパソコンやオンラインで

課題、宿題を出すシステムが余り発達していない様ですが。

友人達の話から、お母さん達がとても苦労していると聞きます。

運動不足、不健全な閉じこもり度、ストレス、食べ過ぎ?で

体に頭脳に悪そうな生活です。

 

今年の過越の祭はとても不思議です。

イスラエルでも家族、親戚とも行き来出来ない。

エルサレムにも行けない。

過越の初日、その日は夜6時以降、次の朝まで家から出てはいけないと言うもの。でも、友人のマンションの人達は皆同じ時間にバルコニーに出て、皆で一斉に同じ過越を祝う歌を歌った

そうです。

 

日本で言うなら盛大なお正月の行事が、神の記念日、祭なのです。

しかも、この春の時期イスラエルでは大雨など降らないものです。

しかし、過越の中の第七日目のシャバットが始まる前、

ガリラヤ湖に住む友人が”大雨が降っている!”と現地リポートと写真を送ってくれました。あり得ない、珍しい現象です。

そして、過越の日の昼間に、オリブ山の上に素晴らしい虹が

出たそうで、これも友人が写真を送ってくれました。

 

この写真はネットからのものですが。

 

これから秋にかけて、イスラエルでは、全然1滴の雨も降らない時期になります。カラカラに乾いた季節が続きます。

 

”後の雨”と言う聖書の言葉を取って、聖霊が怒涛のごとく降り注ぎみたいな教え、ムーブメントの話を聞きますが、実は春の

イスラエルの雨、The latter rainはチョロチョロのパラパラの

少量の雨なのです。

イスラエルには4つの種類の季節による雨があります。

これは別のトピックなので、又の別の時に。

 

こんな隔離生活でも、”神の記念日”は神の記念日=祭なのです。

 

過越の祭り。第一の月の14日日没。15日が始まる時。

この日から、種無しパンを食べる週を過ごします。

同時進行しています。今週木曜日の日没で種無しパンを食べる週が終わります。

そして、過越の祭りの第二日目の夜から、シャブオート<ギリシャ語=ペンテコステ>までの7週間を、סְפִירָה הָעוֹמֶר

セフィラット ハオメル=穂を数える7週間なのです。

7回のシャバットを過ごす。

初穂から、穂がどんどん実る様子。そして、シャブオートを

迎えるのです。これが春の神の祭り、記念日の一連。

全部でワンセットなのです。

 

この中にある様々な教えは、全て主の業、復活の命、

義とされている奴隷から贖い出された人の生きる道のり

過程です。

そして、シャブオートで”婚姻契約”を受けた祝いの記念日を迎える準備期間の日々なのです。7と言う数字にも注目です。

7=完了、完全、かけがない。神のされた業が強調されている

ものでもあります。私達は神の業で完全に贖い出された、義と

されている復活の命を恵により頂いた人である事実を強調されているのです。

 

前回の記事で、過越の晩餐の中で行われる儀式の中で

砕かれたマッツアを子供達に探させるゲームがある事を

書きました。

 

イエシュアがされたあの過越の祭りの晩餐の中での儀式と

重なります。なんでこんなゲーム、儀式がセーダーの晩餐の

中に組み込まれているのだろう?と言う事がポイントです。

 

1世紀の聖書に登場するイエシュア信者達は、ほとんどが

ユダヤ人ばかりです。そして、神殿が70年にローマ政府により破壊され、約110万人のユダヤ人が虐殺されました。

ものすごい数のユダヤ人が殺されたのです。

 

誤解してはならないのは、彼らユダヤ人がイエシュアを信じるから殺されたのではなく、ユダヤ人達が昇天後も変わらずトラー

を生き、神の記念日を祝うから殺されたのです。

神の子らの姿、神の似姿が現れる、神の栄光、実態、エッセンスが、神の言葉を生きる人の生き方を通して現れる=トラーを

生きることを禁じるものが居るからです。

ローマが神のトラーのライフスタイルを生きて、神の記念日を

祝う事を死刑を持って禁じ続けて行きました。

 

そして、それはずっと歴史の中でも繰り返されているのです。

私達は、神が神のトラー=契約を破棄し、終わらせたと教えられ、その人の教えを信じて本当に聖書=神の言葉を根本的に誤解していますが、1世紀の聖書に登場する使徒達、イエシュア信者達100%トラーをイエシュアが生きた通りに生きていた事実を

聖書に戻って、自分の記憶、頭脳の中にある偽情報を、聖書の

真実にリセットし直せば、聖書に何が書いてあるのか、

事実確認をする事が出来ます。聖書に書いてある事実だけを

探り、人の教えを記憶から削除、捨てる、破棄する。

 

そうして、残ったユダヤ人イエシュア信者達も、ローマからは

迫害され、救い主を信じないユダヤ人同胞からは、イエシュアを信じる事で除外されとダブル迫害を受け、そして深く静かに

散って、世界に離散し、イエシュア信者である事を隠して生きて行くことになったのでしょう。これは今のイスラエルでも

同じだから理解出来ます。

 

この3つのマッツアは、1祭司 2 レビ人 3 イスラエル

又は、1アブラハム 2 イサク 3ヤコブと言うラビもいますが、ではどうして真ん中のマッツアを表す=レビ人、イサクが

砕かれるのでしょう?意味が不明になります。人間が砕かれる?

なぜ、この様な儀式が”セーダー”の過越の晩餐に入れられたのか?

 

1世紀当時、ユダヤ人の中には4つのグループがありました。

1エッセネ派 2サドカイ派 3パリサイ派 4ナザレ派=

イエシュアを信じる人々。
この4つのグループの人達は全てトラーを生きていた人です。
ナザレ派も含めて。そこが現代の救い主を信じる異邦人
クリスチャン人達との大きな違いでもあります。
 

神殿が70年に崩壊された後は、神殿の中で過越の祭りの

”羊”を捧げてその肉を皆で晩餐に頂く事が出来ないので、

神殿が破壊されて、散らされた後、イエシュア信者達が

神殿無き後も、続けてイエシュアの最後の晩餐にされた、

過越の祭りの晩餐のたびに、皆のために流されたイエシュアの

血と、砕かれた体、復活の命の事実、イエシュアの遺言通りを、

同じ様に過越の祭りが来るたびに、セーダーの晩餐でこの儀式をして思い出してと言う遺言を生き続けた、伝え続けたのではないかと思われます。これがイエシュアの遺言です。

 

過越の祭りを祝い、このセーダーの晩餐の儀式をするたびに思い出してとイエシュアが遺言されたのです。イエシュアを救い主と

同じ様に信じる私達へも、同じイエシュアの遺言なのではないでしょうか?

そして、毎週のシャバットでも同じ過越の意味を思い出すのです。

 

1コリント 11:23 

わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜<過越の羊が屠られる日の前>、パン<マッツア=種無しパン>をとり、

11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

11:25 食事ののち、杯<贖いの杯>をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約=<再更新される

同じシナイ山での契約>である。<過越の祭りで贖いの杯を>

飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

11:26 だから、あなたがたは、このパン<種無しパン=マッツア>を食し、この杯<過越の晩餐の4つの杯>を飲むごとに、

それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。<過去も現在も未来も同じイスラエルの神=イシュアを信じる人達は、復活の命に移行、義とされている

マッツア=種無しパン=ハメッツ=罪、要らないものが削がれた人である事実を世界へ告げ知らせるのです。>

 

 

 

それが、伝統として残っているけれど、イエシュアを信じない

ラビ達はそれが何であるのかよく分からないので、

この様な考えをします。

しかも、この3つのマッツアはギリシャ語なので、

ラビ達は意味を知らないから、”デザート”と読んでいますが、

実は、このギリシャ語の意味は、たった1度に起きた過去の事実

を表す動詞=Aerost Tenseで表される言葉です。

 

”I came" わたしは来たと言う意味で。

そうイエシュアはトラー、預言書にある通りに来られた。

トラー、預言書に書かれたのはわたし=イエシュアそっくり丸ごとそのものとイエシュアが言われたのです。

では、トラー、預言書=イエシュア=神の言葉、教え、インストラクション=神の記念日=福音の全てを生きて表すものなのに

神の造られた記念日を呪い、律法、恵無し、だから捨てよと

教えるのは一体どこから来る、誰の声?

 

 

続く