春のイスラエルの神の祭りは、ユダヤ暦第一の月=ニサンの月
<バビロンの名でアヴィヴの月>の14日日没、15日が始まる夕暮れ時に始まります。
シャバットも祭りも必ず日没から始まります。
過越の祭りが始まるその前は、パン種=ハメッツ除去をします。
全ては、”復活の命” 奴隷から贖い出されて救い出された人を、
出エジプトで実際に起きたことに重ねて教えているのです。
あなたは誰か?義とされて、神の前にシミみ傷も無い、
子羊の血ですすがれた人=それが本当のあなた!と言う事を
ずっと神は言い続けて下さっているのです。
偽の自己像を唱える=それこそ本当にハメッツ=パン種以外の
なんでも無いのです。神のされた業を認めない、台無しにしてしまいます。神のされた命をかけた代償、贖い=買い戻しの恵みを無駄にした生き方を続けないでと言われているのです。
偽の自己像=主と共に死んだあなたのまま宣言はしないでと。
ハメッツ=要らないものは除去したと主は宣言されたから。
福音書だけを読んでも、イエシュアが弟子達がこの祭りのために
エルサレムに向かった記録があります。
エルサレムで過ごした記録が聖書に書かれています。
使徒達は、昇天以降も過越から7週後のみやこ上りの祭り=
シャヴオートまでエルサレムに留まりなさいとイエシュアに
言われました。
イエシュアが使徒がシャバットとレビ記23章の神の記念日を祝っていた事実が書いてあります。
祭りと書かれてあれば、それは春の祭りの過越。
そしてシャヴオートです。秋の祭りは、仮庵の祭りを巡る一連の祭りです。それが聖書のオリジナル、神の造られた”わたしの
記念日”と紹介されている記念日なのです。
使徒2章も過越の祭りで処刑された7週後に来る、神の祭り
シャヴオートの記録なのです。神の祭りは永遠普遍、いつの時代も終わらない、廃らない、変わらない。永遠に祝われるわたしの
記念日と書かれています。
ちゃんと、神の祭りを使徒達は祝っていたのです。昇天以降も
変わらずに、皆レビ記23章の祭りを祝っていた。
神の記念日、シャバット、祭りを祝うのは、イエシュア信者と
して、ユダヤ人として当然だからです。神の家の子らだから。
神が造られた永遠普遍の祭りを、これは終わり、あれはやると
言う祭りは聖書には書かれていません。
それは、1曲の曲を数節だけ歌うのと同じ事だからです。
神の造られた祭りは全部祝って1セットなのです。
福音の全て=イシュアを表しているものだから、どこも捨てる
ことなど出来ない。捨てたら福音の全貌が、意味が見えない。
奴隷=束縛、屈従の世界=偽の神々=教え=偽の自己像から
贖い=買い戻されて、救い出されて本物の主人=イスラエルの神の元に繋がれたからです。
過越の祭り、その日は1日ですが、伝統的に二日の間晩餐をする人もいますし、何回もやる人もいます。
そして、その過越の日から7日間、種無しパン=マッツアを食べる週です。パウロの言葉を思い出す。頭脳に割礼を受けた、
イエシュアの復活の命に与った者として、マッツア=パン種=罪がそぎ落とされた事実、状態で過越を祝おうと書いてあります。
1コリント 5:7
新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種=ハメッツのない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパン
=マッツアをもって、祭<過越の祭り>をしようではないか。
そして過越から7週の間、”穂”を数える日々を過ごします。
これは、出エジプトして贖い出された人が正式に婚姻契約を
渡される準備の日々です。
どうして?奴隷は、いきなりエジプトを出ても、奴隷の思考回路
のままだから。本物主人、神の民=最高の宝として受け取られている事実がはっきり頭脳の中に無い。
この7週の間に切り替え準備。もちろん、1年の祭りのサイクルの中で、そして生涯をこの神の祭りを祝う中で、ずっと”贖い出され新しくマッツアとされた人”で生きる、きよめのサイクルを
生きならが、奴隷の脳回路=偽の生き方離脱し続けるのです。
創造主はイスラエルの神です。イスラエルと呼ばれる人達は、
同じ創造主に造られ、頭脳に割礼を受け、イエシュアの贖い、
救いの事実を受け取った人達を、”イスラエル”と言う代名詞で
聖書では書かれています。
出エジプトした後、紅海に面した窮地に立たされた時、
同じ”救い”をモーセが宣言しています。
”今日、神の救い=イエシュアを見よ!”と。
出エジプト14:13
イスラエルが、世界の中全ての民族の中で、特別な唯一の国民=”聖別”=境界線、一線、分かたれて取り出された理由は、
”偽の神々”=異教の神々に繋がれた生き方と区別するためです。
区別=差別ではなく、世界の全人類が”イスラエルの神”の元に
引き戻される役割=灯台=光=チェラビムの役割を与えられたからです。
エデンの園に戻る道しるべ、”地の塩” ”世の光”として
選び出されたからです。
同じ神の契約=教え、イントラクション、家訓を生きる人達が
神の国の民である事が書かれています。異邦人も、同じイスラエルの神を信じるなら、同じ神の国に生きる民族=民とされた
事がずっと書かれているでしょう。エペソ2章でパウロが
言ったように。同じ羊の囲い、同じ木に接木、同じ契約に
加えられ、同じイスラエルの神の民=イスラエルとなったと
はっきり書いてあります。読めば分かります。
これを屯でもなく誤解し続けて来ました。
福音はユダヤ人により伝えられました。
聖書は神がユダヤ人を選び聖書を記録する様に定めました。
その福音は、創世記から同じ内容なのです。
それではなかったら、トラー=イエシュアと言う意味が
違うことになってしまいます。
トラーに書かれた事、聖書の最初に書いてあるエデンから出て
エデンに戻る、イエシュアの業が書かれている事が嘘になってしまいます。
創世記 3:14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
3:15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
続く