過越の祭りに処刑されたイエシュアの最後の7日間を辿ると
たくさんの真実、真理、新発見を発掘、知ることが出来ます。
イエスのロバに乗ってエルサレムの神殿へ入る時に、
イスラエルの人達がシュロの葉をかざして叫んだ理由。
そして、エルサレムに過越の祭りで向かう弟子たちとの旅路。
過越の前にあった様々な出来事。これらが何故聖書に記録されているのか?意味があるからです。
イエシュアの処刑前の過越の晩餐の意味。
この晩餐は、エッセネ派の流儀で行われたものです。
皆がする過越の晩餐の前日に弟子たちを集めて行ったものです。
イエシュアと弟子たちは、パリサイ派なのです。
でも処刑される前日に、この晩餐をやる意味があったのです。
クリスチャンの世界でもよく知られる、主が渡される前の夜に
弟子たちに伝えた遺言があります。
聖餐式として、クリスチャンは毎月1回日曜日にやっているのが、一般的だと思います。
これは実は聖書のオリジナルでは、過越の晩餐の中でやる、
”順序”と言う名で呼ばれる晩餐の儀式の中の出来事なのです。
この儀式は、ランダムに適当にやっているものではなくて、
意味のある食べ物と祈りを順序立ててやって行くものなのです。
主の祈りも、イエシュアがトラーの真髄を教えるために使われたたとえ話なども、そしてこの最後の晩餐の儀式も、1世紀当時
ユダヤ人なら誰でもが知っていた、やっていたものなのです。
何1つ以前とは違う別の教え、新しい教えなどイエシュアは教えてはいません。トラー=父の言葉=モーセの五書=婚姻契約を
否定し、終わらせ新しい教えを教えている=完全なる都市伝説=聖書の真実と反している教えなのです。
パリサイ派のパン種に気をつけてとあるのを読んで、古い律法の教えをする人、律法主義=悪い、古い、呪い、廃れた=旧約聖書=モーセの五書と咄嗟に連想すると思いますが、聖書の記述を
大変誤解しているのです。そう教えられて来ているからです。
イスラエルの神の性質=エハッド=神の言葉=エハッド=
永遠に変わらないと神が説明している言葉をその通りに読めば
真実が浮かび上がってきます。
イエシュアが語られている、教えられている、生きている
全て100%=父の言葉=モーセの五書なのです。
全て古い呪いの律法と人が唱えている、定義している、名付けているので誤解しているのです。
パリサイ派の教え=パン種=悪いものと考えていると思いますが、パリサイ派のパン種=人の編み出した教え、トラーにも
書かれていない、神の教えでも無い、人造=人を縛り付ける、
命の無い騙し事の哲学、人の教えの事を言っているのです。
口頭トラー=人の教えに対して、ずれている、それは父の言葉=トラー=モーセの五書では無いと言っているのです。
父の言葉=シナイ山の婚姻契約=モーセの五書を、父に遣わされた子が、遣わされたお方の言葉、教え、インストラクション
=トラーを否定するならそれは神からの遣いではなく、
別の神々から遣わされた偽預言者になります。
過越の晩餐は、長ければ夜通し。何日かに分けてやる人も
います。
私たちの場合は、今回、2時間ずつに分けて、2晩に渡り
やってみました。水曜日の初日、ペサフが始まるシャバットの
晩に。そして金曜日の晩、週1度のシャバットを迎える時に。
その他、トピックに分けて話し合ったりしました。
全ては、”修復” 奴隷=束縛から解放された人を取り戻す
旅路を生きるためです。ハメッツ=罪、ズレは何?
喜びを体験するはずなのに、どうして自分の中に、関係の中に
苦悩、苦痛、悲しみがもたらされてしまうその行動、思索は何?
どうやってお互い、本当の関係を築けるのか?修復するのか?
それが儀式の中の食べ物でも表されています。
復活の命=初穂=first fruitsもこのセーダーの晩餐の中で
回想するものなのです。
この最後の晩餐=過越のセーダーの晩餐の中でイエシュアが
行われた事が、聖餐式と言う形を変えたものでクリスチャンは
行うので、馴染みがありますね。
でもイエシュアもされていた聖書のオリジナルの儀式との
違いは何でしょう?
1この儀式をする時は、”過越”の祭りの晩餐の時です。
2 過越の晩餐を祝う中で、4つの杯を頂く時の第三の杯、
贖いの杯を頂く時。
3 この時に頂くパンは、種ありパンでは意味がないのです。
イシュアが弟子たちに伝えたのは、砕かれたマッツアを見せて
過越の子羊の血でマッツア=要らないもの=罪がそぎ落とされた
人である事、永遠から取り戻されている事実を教えているから
です。だから種ありパンでは意味が違うものになるのです。
過越の儀式の週では、パン種は”要らないもの”=ハメッツ=以前の偽物の人を表すものだからです。神のオリジナルの教えに
戻してやると、本当の意味、真実、メッセージが見えてきます。
しかも、この過越が来る前の日に神殿の中にある種ありパンが
焼かれる儀式がありました。
今エルサレムに神殿が無いので、個人の家に於いて、それぞれ
家にあるパン種=ハメッツを燃やす事をしたりしています。
私の場合は、家の大掃除と物も今は余り無いので、掃除、
片付けは楽。
イースト菌、クッキー、パンやお菓子、パン種がある物を
全部取り出して、友人に上げたり渡したり、家の中のパン種除去を1週間前からしました。
引き出しや、オーブンなど隠れたイースト菌や、知らない間に
買ってあったイースト菌入りの物が棚から見つかったり。
自分では完璧に除去したと思っても、思いがけない場所に
潜んでいるハメッツがある事に気がつくのです。
もちろん、イエシュアのされた業を思い出す事は共通点です。
そして、出エジプトの出来事=過越は毎週第七日目のシャバットでも繰り返し思い出す、祝っているものです。
神の記念日は福音の全てを網羅するもの、イエシュアそのものであり、復活の命に授かった人を表すものでもあるのです。
この中で、夕食ののちに、杯を取りとイエスが言われ
された事。
過ぎ越のセーダの晩餐の中で飲まれるワインの3杯目の杯は、
購いの杯と呼ばれているものです。
イエシュアが地上にお生まれになる前から、伝統として、
このペサフの晩餐で飲まれていたものです。
4つの杯の意味は以前も書きましたが、以下の通りです。
1)エジプトから引き出す 清めの杯
2)自由な身になる デリバランスの杯
3)購われた者となり 贖いの杯
4)主の者となり、受け入れられている 賛美の杯
出エジプト6章
6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。
7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。
3番目の杯 わたしは、”あなたを購いだす”と言う意味で飲む
ワインなのです。イエシュアが弟子たちに話している記録が
書いてある箇所が、この購いの杯と呼ばれるものです。
聖書では3番目の杯=購いの杯を飲む事をイエシュアが
されました。死と命、購い、救いを覚えるために。
イエシュアの時代も、行われていたその確かな証拠、記録が
あります。
4杯目=”受け取られている”の杯を飲む その意味もイエシュア
居られた時代の人達、又以前の人達も皆知っています。
私達が、日本のお正月で おとそを飲むとか、おせち料理の
食べ物の意味は何かとか、年越しそばが何であるかと言うのを
普通に文化の中で伝統的に知っている、やっている事、説明されなくても分かるのと同じです。
ペサハ=過ぎ越にこれをするようにとイエシュアがはっきり
言われたのです。私達に今この特別な祭りの時に言われている
言葉でもあるのです。
ユダヤ人だけやればいいのさと思う場合は、聖書を理解しないまま主の言葉、招きを、他人事の様に外側から隔たった場所、
距離で見ているからです。神の家の中の特別な祝い日の宴会に
入らないまま。人の招きではなく、イエシュア=神の招き、
記念日の招待に応答して参加すれば様々な事が見える、
体験する、発見出来るのです。
それがこの過越の晩のイエシュアの弟子達にどれだけ意味のあることとして、イエシュアが語られたのか分かるでしょうか?
続く