イスラエルの神を信じる人達は同じ家族 同じイスラエルの神が造られた記念日を祝う | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

この神の記念日=祭が何で”みやこ上り”の祭りなのかも、

書いてあるから、見えます。

神の名は、父、子、聖霊と言う名だけでなく、たくさんの名で

紹介されています。

名前=性質、実態、事実、評判だからです。

 

多くの名で表される神の名の1つに、”エハッド”と言う名が

あります。

その名前が表す神の性質が分かれば、2つ別々、隔離、隔たり、バラバラに分けられてしまう人間のグループ、途中で変わる

神の言葉や人種別により別の教えやインストラクションであると

唱える人間の教えが、非聖書的、聖書にそんなことなど書いてない、神の言葉の真実の前に、不真実は煙、泡の様に消える事が分かります。

ちゃんと聖書を読めば、聖書に書いてある通りを知れば、

誰でも分かる事なのです。書いてない人間の教えに変換し続けるから、聖書の真実が見えなくなるし、別物の教えが書いてあると、書いてないのに誤解してしまうだけです。

翻訳にも問題があるし、不適切な翻訳や、聖書に無い言葉や

文章を人が勝手に神学を証明する証拠を作るために挿入して

聖書を改ざんしてしまうから。

プラス人の解説が聖書の真実を曲げているからです。

 

エハッドは、複数以上で全く1つ、一体を表す言葉です。

様々な要素が集まり1つ。人の体もたくさんの細胞と器官で

なっていますが、自分の体は1つ体でしょう。

そして、その人間も1つの細部から分裂して様々な器官が出来て1つの体となったのでしょう。

同じ1つの要素を共有していて、体は全部繋がっている。

それをバラバラにしようとするのが、神学=人間哲学発想なのです。ギリシャローマヘレニズム異教徒思考である証拠でもあります。

その教えが、聖書=ヘブライ語聖書のヘブライ思想とは全く真逆だからです。

 

どうしてそう分かるか?聖書に全部1体に戻る事が書いてあるからです。それが修復の業、福音。福音の究極のエッセンスは、

元どおりに戻る事。罪の許しとは、福音のほんの一部なのです。もっと広い、深い、全貌が救いの内容なのです。

1体として、神の中に造られた人達が、1つに戻る事。

エデンから出て、エデンに戻る詳細が福音だからです。

 

この都上りの祭りも、な〜んて面倒!て思うかもしれないですね。実家に帰省するのは大変だけど、楽しみでしょう?

そのために貯金をし、時間を割くのは苦痛ですか?

家族と親戚と会える、楽しい時を過ごせる。宴会も楽しみ。

それが大変、嫌だと思うのは、色々別の問題があるからです。

 

でも、これ福音の中心でもあります。絵画的教えです。

1つ神、1つ国の1つ場所=神の家がある場所に皆が上る、

神の中に1つに引き寄せられる絵画的教えでもあります。

福音=人の生きる実態。それを代表のイスラエルと言う国民が

まず神の言葉を教えを与えられ、生きるように教えられた

そして、そこで喜び、楽しみ、神と1つ皆と1つ繋がれて、

喜びマックス=エデンが現れる。

 

考えれば、分かりますが、出エジプトしたのは、イスラエルだけでは無いでしょう。神の声、言葉に一緒に応答した人達は、

その人達の上を神が”子羊の血”を持って過越を神が行った、

その出来事を記念し思い出すそれが過越の祭りでもあるのです。

 

今は神殿が無いので、実際の祭りの儀式は神殿の中で行われません。神殿が壊れている、乗っ取られているので行えないから、

出来ないだけです。

 

数日前のオンラインセッションで、クリスチャンが、

”過越の祭りで羊を生贄で捧げるの?”と質問していましたが、

神の祭壇が今無いので、捧げもの=動物のコバーンは捧げてはならないのです。

自分の考えや、思いで勝手にしてはならない事がちゃんと聖書には書いてあります。気持ちは分かるけど神が言う通りにする。

シンボルとして食事の中で、ローストした羊を食べたりしますが。

 

でも昇天以降も毎年、弟子や、パウロや1世紀のイエシュア信者

たちは、エルサレムの神殿でもちろん三大祭りの時に、

みやこ上りをして、コバーンを捧げていたのです。

 

ルカ2章41−46

「さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレム

に行った。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの

慣習に従って都へ上り、祭りの期間を過ごしてから、

帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。イエスが一行の中にいるものと思って、一日のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

 

毎週のシャバットで、必ず出エジプトの箇所を朗読します。

そして、創造主は、神の民=信じるもの達に対して、永遠に祝われる”わたしの記念日”と言うものを紹介しています。

レビ記23章 民数記28章 申命記16章。

 

イスラエルの神は創造主です。人は同じ1つの神に造られたのです。境界線が敷かれて、イスラエルと言う国民が選び出された、

聖別された理由は1つ。一大家族の長男は、神の意図通りを生きるお手本を示すために選び出された。

ただそれだけの理由。人間としての優劣や、神のえこひいきでも無いです。

聖書をちゃんと読んでいけば分かりますが、長男では無く、

次男が長男の役割をしているものがあります。

ヤコブ=イスラエルもそうでしょう。そして、ヨセフも。

しかも、タマルやルツは異邦人です。なのに、救い主を産む

先祖の母となっているでしょう。

 

聖書には、1つ神へ、1つの大家族として、本物の人間の姿

生き方に修復される事が書かれています。

偽物の自分=脳回路の中にいまだに存在している、それを離脱する旅が書かれているのです。

出エジプトの過越と、人が救い主、神に出会うことも同じ内容

なのです。2度の浸水。贖い出された人が、本物の生き方を

学習し、約束の地に入り生きる。奴隷の頭脳のままでは

神との本当の関係は成熟していかないからです。

そして、同じ神に繋がれた人は同じ契約に加えられたのです。

その人達は、神が造られた同じ記念日を生きて、同じ神の似姿

イエシュア=トラーを生きると書かれています。

 

 

申命記16:14 その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、

はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しまなければならない。

16:15 主が選ばれる場所で七日の間、あなたの神、主のために

祭を行わなければならない。あなたの神、主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、

あなたは大いに喜び楽しまなければならない。

16:16 あなたのうちの男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、すなわち種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない。ただし、から手で主の前に出てはならない。

 

 

 

みやこ上りの様子。喜びマックス。

神の祭りや記念日を、律法、呪いなんて考える人は聖書には

誰一人居ないのです。

image