神の永遠の三大祭り 過越 シャヴオート 仮庵 都上りの歌 詩篇 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の中に書かれている、”わたしの記念日”と神が紹介され、

イエシュアも地上で毎年行われていた祭りは、

エルサレムに上る”みやこ上りの祭り”、聖書のオリジナル

イスラエルの神の三大祭りです。

 

この都上りの祭りの時に歌ったのが、詩篇120−134章。

三大祭りの時に歌ったものです。

イエシュアも歌われて、この祭りを祝いにエルサレムに

行ったのです。

ユダヤ人の賛美歌は全て、聖書=詩篇です。

 

イスラエルの神の三大祭りは、春の祭り=過越、シャヴオート、そして秋祭りは、仮庵です。今は異邦人には関係ないとか、

ユダヤ人だけの祭りと言う教えは非聖書的=聖書に書いてない

教えなのです。聖書の事実に戻って考えれば真実が見えます。

 

これらの祭りは、全て預言的祭りであり、福音=イエシュアの

全てを網羅し、私たちが誰か=新しくされた人である事を

表しているものなのです。今種無しパンを食べる7日間ですが、

マッツア=要らないものがそぎ落とされた=あなたは”義”と

されている人である事実を頭脳に強烈にインプットする強化週間なのです。

 

主の復活の事実を地上でも見せて下さったのに、なおも

ずっとずっと”私はダメな罪人です”と、歪んだ謙遜を言い続けて生きるなら、それは神のされた事に対しての不信仰の表明ではないのでしょうか?

主のされた業でのみ義とされたと信じるなら、どうして神の宣言、業、言葉を否定し続け、信じないで罪人宣言し続けるの

でしょう?

神である主が肉体をとって地上に来られ、私たちと同じ人間の

痛み、究極の恥、侮辱、etcの全てを負って過越の羊として屠られた事実を、本気で受け取らない、本気でなんか信じてない、

否定するのは神のみ旨に叶うことなのでしょうか?

 

それでは主の復活の事実を祝う意味はなんなの?てことになるでしょう。聖書に書かれている通りを本当は本気で信じてない。

信じがたいですからね。自分の変わらない体と行動、思索を

考えれば。

 

偽=奴隷=エジプト=別の神々や、人の作り出した理想やゴールを目標に生きていた以前の自分は、主と共に木にかけられ、

処刑され、死んだ!死んだ死人が復活すると言う教えは、

それはゾンビ信仰でしょう?私たちが、主と共に復活し、

新しい命を頂いたと言いながら、どうして私は酷い罪人ですと言い続けるのか?

 

こける理由は、あなたの本当の性質が罪人だからではなく

以前の性質=死んだ人の記憶、習慣、思考回路のまま

同じ行動、思索をしているからと言い換える。

決めない=新しくされた人を生きようと、信仰により歩み出す

決意を決めてもいないから。諦めモードを繰り返し生きる。

どうせ、罪人ダメな人だから、免罪符で一時しのぎしますと。

 

以前のパン種=ハメッツを、脱エジプトの過越の夜の後もずっと同じ様に取り込み続け、以前の行動、思考、習慣で生き続けているから、思索の棚卸し、止まり、ずれを点検していないと言うことが本当の原因。きよめサイクルは、1年の中にある神の記念日を通して、確認、やるものでもあるのです。

そして的外れた考えや、行動、それを止める=シャバット。

やって見れば分かる。そして、パウロが言った言葉を思い出す。

 

2 コリント5:10 1つ1つの思索をトラーに照らし合わせて、イエシュアの中で捉えて、確認して、自分の思索、考え、

行動、反応が、神の似姿のエッセンスとはずれているのか

いないか、はっきりと考えながら歩んで!と教えられているでしょう。それがパウロの教え、忠告です。

 

あなたが今こけた事をするなら、それは本当のあなたを生きてない!的外して生きてるよ!と言う事です。

そしてイエシュアの生き方に戻る。

この戻る内容=生きる詳細がトラーに書かれているのです。

神の言葉に照らし合わせることが、イエシュアの道のり、足跡を

生きると言う意味なのです。自分定義、空想、想像、感覚ではなく、神の言葉=父の言葉を生きるとイエシュアが言われたのがそれなのです。

 

復活の命=初穂=イエシュアの命に移行した事は、

イエシュアが実際に復活される前からずっと教えられ、

シャバットで、祭りで、復活の命=義とされている人である事をずっと教えられ、祝われているのです。

一人一人がどれほど理解しているか?はそれは又別問題です。

どの時代にも人により、神との関わり、神の言葉の内容の

理解度は違うでしょう。

信仰の旅路の途上がそれぞれ別だからです。

 

永遠に祝われるものであり、イエシュアが再び地上に戻られたら、全世界がこの三大祭りを祝うようになる預言がされています。なぜ?それがエレミヤが言われた預言です。

 

誰も主=イエシュア=トラーを知ろうと言わなくても、頭脳に

割礼がされ、皆がトラー=本物の人間の生き方、神のエッセンス

通りの生き方の詳細を生きるようになるから=新しい契約=

同じシナイ山で与えられた同じ契約が再更新され、

同じ人間の生き方を皆がする日が来ると書かれているからです。本物のワンワールド。

いつかイエシュアにより、神の言葉を生きる人達で治められる、

ガードされる本物の世界が来る。別々、分裂バラバラな人類では無い事がちゃんと書かれているでしょう。聖書には。

2つ別と言うだけで、それは神のデザインに反している事、

聖書から気がつけば見えます。エハッド性に反する事は

イスラエルの神の性質、神に造られた1体の子らの姿では無い。だから別々だと寂しい、侘しいでしょう。神に造られた人間の

エッセンスに反するからそう感じるのです。

 

人種により、時代により、別の福音、別の契約=神の言葉なんて聖書の教えでは無い、そんな事どこにも書いてないし、逆が

書いてあります。永遠普遍の神の言葉=教え=トラーと。

進化論を信じ、聖書とは別の神像を信じれば、

それはなんでもありの世界になります。

神の言葉に手をつけて変形したら、何が聖書の事実か、分からなくなリマス。でも真実を確認できる証拠があります!

オリジナル聖書=永遠普遍の神の言葉。

 

トラーが、イスラエルの神に造られた人間の生き方、本質、

全てであるとはっきり神が宣言されているからです。

 

このみやこ上り、イスラエルの神の三大祭りは、

永遠にフィックスされている祭りです。

ユダヤ人だけの祭りなどでは聖書には無い。ユダヤ人しか

主に神の祭りを今まで祝って来なかったから、ユダヤ人の祭りと

考えているだけです。異邦人は異教の神々の祭りを

祝うから、イスラエルの神の記念日、祭りを祝わないだけと

言う事です。

 

イスラエルの神の三大祭りは、必ず曜日に関わらずにシャバット=止まる日として記念日を祝い、そして祭りの最後の日も曜日に関わらずシャバット=止まる日として終わります。

その週の中には、今日の様に週一度の第七日目のシャバットも

入っているのです。もし、神の記念日が例えば金曜日日没から始まるならば、初日が週一度のシャバットと重なるので、

祭りの中に2回のシャバットしか無いと言う事です。

今年は、水曜日から始まったので、過越、種無しパンの週の祭りに3回シャバットとして祝うのです。神の祭りは毎年曜日は違います。ユダヤ暦の月、日でフィックスされているから。

 

神の祭りや、トラーを学んで行くと小さいピースが少しずつ、

少しずつ繋がって聖書の図柄が見えてきます。聖書が1つ、

同じテーマで、永遠に変わらない同じ実質の福音が語られている事、神が教えている事がはっきりくっきり見えてきます。

時代も、人種も超えて、神は同じ業をし、同じ関わりをし、

同じ助け、贖い、救い、助けを与え続けてくださるお方だからです。

 

続く