聖書に関して、どうして様々な誤解されている教えが生み出され続け、編み出されたのだろう?と言うその原因は実は、
たくさんあります。複数の要因が重なり合っています。
土台にある根本の原因は、”人”が神の場所に立ちたい。
神の言葉は絶対と言う基本中の基本の神の教えを捨てて、
聖書とは異なる19世紀や聖書が閉じられた後に異邦人が
編み出した教え=哲学=神学が聖書の真実だと錯覚し、
自分の悟り、感覚、判断を頼りにしている事。
人間の教えで、神の言葉を塗り替えたい。自分の感覚、受け入れられる事だけを取り入れたい。
納得出来ない様に聞こえる教えは、認めたく無い、全部排除
したい。
なんでも自分判断中心で、自分の願い通りに、考える通りに
自分の判断で、自由にやりたいと言う根本にある願望。
エデンの園で地を這う動物にそそのかされた事と、全く同質の
問題なのです。”それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、取って食べた。”創世記3:6
食べるのには良く=良く=トーヴ=神の意図通りと書いてありますが、実際は知識の木から食べるのは、神の意図=トーヴでは
無いと神が言われたでしょう。人間が食べるのに相応しい木、
木の実では無いとはっきり最初に教えています。
でも、エバの目には、”美しく”と書かれています。
地を這うものの言葉にそそのかされて考え始めた途端、
もう既にズレている。”お前は既に死んでいる〜”のセリフと
同じです。神の言う通り、神の目と同じ視点から見ていたら、
その知識の木の実は、”トーヴ”=神の意図通り人の食べ物では
無いと、はっきり見えた、理解出来ていたはずだからです。
神の言葉からズレた時点で、混ざった教えを考え始めた瞬間からもうズレている。エデンの園=喜び=神の中=意図通りから思索が飛び出している。
”賢くなる” 神の様に賢くなる。それは嘘でしょう?
蛇は真実と不真実を混ぜて語って来る手口。混ぜ物の教えは
本物が分からないと、どこからどこまで本当でどこから嘘だか
見分けが付かないと言う、警告、教訓でもあるのです。
なぜなら、人は”神の性質、似姿そっくりに造られた”と書いて
あるから。神は人を罪=ズレの性質に沿って作ったと聖書に
書いてありますか?
6日の間で、神は全ての業を終えて止まったと書いてあります。
後から付け足さなければならないものはゼロと書いてある。
完了!
人間の性質=欠けがない。足りないところが無い。
努力で付け足すものは何も無い。神が全てを備えた。
それがシャバットの醍醐味でもあるのです。
神の完了の業から、全てを生きる!自分の努力で、エッセンスとはズレた不必要なものを付け足す必要がない。
自分のエッセンスを造られた通りに生きる。
神の言われたエバの性質=人の自己像のエッセンスに関して、
エバは疑ったのでしょう。何か足りないかも。。。
自分はこのままでは、まだダメかも。。。。神の言葉を無視して
やれば、もっと良いことになるかもと。神のされた事が不完全で
不服に思えて来た。
性悪説を語る教えも同じでしょう。
人の性質は神の性質通りに造られたと書いてある。
でも、エバの様に別の声に聞き入れば、別物を学習してしまう。
神の性質の中に、別の性質を取り込む。頭脳=別の地で耕し
別の種=人の教えを耕したらもうそれは別の実=宗教の実が
なる。別物に変身=神の中から飛び出し、ズレて行く。
それが、的外れ=トラーを外した生き方=罪と書かれているのです。
PDFの様にフィックスされていない。人は神の言葉を生きるのか
生きないのか選択権が与えられている。
あなたは命=神の言葉を選んで生きなさいと言われても
拒絶すれば、ずれる。罪人だからずれるのではないのです。
ズレた生き方を選択する。それを促す傾向が、”罪の法則”=
自分がズレたエッセンスを学んでしまったから、その習慣に
影響されてしまうとパウロが言っているのはその事なのです。
そして、イエシュアが地上に来てまで見せてくれた”完了”の業
あなたは雪よりも白くした、あなたは新しい人、あなたは私の
目から見てタミーンと神の業を根拠に語る事実=新しい人=義と
されている人を取り戻されている事実を殆どの人は信じてないと
思うのです。将来この世の生活終えたら、そうなると言う
教えを信じている。でも今既に神の中=エデン=天の中にいると聖書には書いてあるのです。本当に人間の理解を超えた、理解
し難い事が神が人に語っている事が聖書には書いてあるのです。
自分が理解出来ない=真実では無いのでは無いでしょう。
神の言葉が真実とする。ここに全部の土台を置く。
自分の行動、思索を考えたら、ズレているから。
時にはこける。時にはズレた考えをしてしまうから。
でもそれは、死んだあなたですと言われたでしょう。
主と共に死んだあなた=記憶が頭脳にまだ残り、同じ生き方をし続けているだけ。
新しい人を与えられている事実を生きないから。
主と共に死んで葬られたと書いてある事実を認めて生きる。
新しい命=復活の命=イエシュア=義とされている事実が既に永遠の中からイエシュアを通して取り戻されている。
そのイエシュアの言葉=父の言葉だけを信じて生きる。
自分の判断、悟りを基準にすれば、プラス日々、以前の肉の人、
トラー=神の教え、インストラクションを知らない、罪人の性質丸出しの今までと何も変わらないズレた生き方をし続けているから、信じないし、新しい人を生きようなんて思わない。
人は自分の中にある自己像通りに生きるのです。
罪人の自己像=罪人らしく生きる。神の子=義とさえれた人の
エッセンス通り、地の塩世の光、光の子らしく歩みなさいと
言う神の言葉を遮っている教え=神学を聞き続けて、神が語る
本物の自己像が確立しないからグラグラ揺れ続け、簡単にこけるのです。
でも神が言われているのは、人の業や努力が基準ではなくて
神がされた”業”を信じ続けて、受け取り、それに沿って生きる
選択をし続けますか?と言う問いなのです。
あなたがどう感じるか、考えるか何て1つもその中には無いの
です。
”神の言われる事を疑い、そう言われたのではないかも?
もう神の言葉は終わりなんだ〜。”と変形、飛躍、最後は
サタンの言われる事を取り、神の言葉の方を捨てた。
神の言葉を自体を捨てた、排除した、これが全てうの問題の根本の原因であると書かれています。
神が言われた通りにと言う事をはぐらかされて、違う教えを取り入れる事。どの方向から見ても、的外れ=罪=ずれの問題の本質=エッセンスは最初から最後まで同じです。
神である方、人間では無い、人間の頭脳を遥か彼方永遠無限に
超えた方が、人間の言語で、神の造られた世界と、神がデザインした神の性質である人の生きる生き方を、人に話しかけている。
神の目からそっくりそのまま”命の木”からだけ食べて生きる様に
作られていた人類は、神が禁じられた=それはあなたの食べ物では無いと言う”知識の木”から食べる行為に及んで、神の目から
見る通りとは、別世界を見る目が開かれてしまった。
美しい織物、手編みのセーターを裏側から見たら、糸が出たり
図柄が見えなかったり、ごちゃごちゃ汚く見えるのと同じ。
美しいものを醜く見る様な、神の目から見る事とは、
別の目から見る、全く別世界に飛び出してしまったから。
続く