聖書の言葉、聖書で語られている内容に関して
完全に”誤解している箇所”、”聖書には〜と書いてある”が、
実は聖書では無い教え=伝統的な解説、原典言語とは全く違う
意味で語られている聖書箇所がたくさんあります。
又は神の言葉=聖書に無い解説=神学が、神の教えだと
信じている、神学を聖書の事実だと思っている、信じている、
考えていると言った方が合っています。
聖書とは異なる人の教えを土台にしているので、聖書では無い
教えを、聖書の事実なのだと勘違いして伝えられていると言う
箇所に関して、出来るだけ詳しく書いてみたいと思っています。
イントロが大変長くなっていますが、”Bear with me”
忍耐してお読み頂ければ感謝です。
神の言葉の真実では無い事=聖書の事実と異なる、ただの人が
作った教え=神学の教えは、聖書では無い。
世界に浸透しているけれど、ヘブライ語聖書=オリジナル聖書とは違います。
1世紀以降の、西洋宗教歴史の史実の中で起きた、
ダニエル書7:25がずっと起き続けているのです。
神の言葉=トラーと神の時=記念日=祭りを変える事。
ほとんどの西洋宗教の中での聖書解説は変化球付きです。
2000年以前は、2000年以降はと分けて語ります。
怒りの呪いの神の時代、恵と許し、聖霊時代は恵の神の時代は、と言う変化球が必ず解説の土台にあります。
それは聖書?それとも神学の教え?
その根拠は聖書にある教えなの??それともただの架空の空説?
聖書だけに戻ら無い限り、真相は見えないのです。
殆どの場合、原典聖書に戻り深く検証し直す事などしない。
でも聖書だけに戻って、1つずつ確認すれば、真実か否かの
根拠を確かめる事が出来るのです。
永遠普遍と言う神の語る、神の言葉と神の性質に関する神の
主張、教えと、時代の前後で変化する神と神の言葉であると
言う人間の主張が、聖書とは真っ向から対立している事実に
目を向けないとならないからです。矛盾、ずれがあるから。
英語圏には、ヘブライ語聖書を知る学習ツール、辞書、情報、
英語でヘブライ語聖書の内容、意味、言語を解説出来る
ユダヤ人がたくさん居ます。世界中に居ます。
聖書に関しての様々な手がかりが英語圏にはたくさんある。
でも日本語圏には聖書を知る手がかりの学習ツールさえ無いと
言うショッキングな事実があるからです。日本人に頭脳が無いからではないのです。パウロが書いた通りです。エペソ2章。
イスラエルの神と、神のトラー=契約から遠く離れた人々だからです。ローマ皇帝の勅令で、ヘブライ語の聖書=トラーを学ぶ
チャンスを奪われたからです。神の言葉を捨てよ!と言ったのは
神ではなく、ギリシャ、ローマ、異邦人達、ただの人間です。
神の言葉をそのままガードし続け、生きて来たのは
<全員ではないですが>世界に散るユダヤ人と少数の異邦人だけです。
どこでボタンの掛け違いが起きたのか?そこに戻り、全部軌道修正すれば聖書は1つである事をはっきり知るから。
真理は人に自由と解放を与える。人は真理を知る様に出来ている。なぜなら、人は神の言葉=真理で綴られ造られているから、
神の中=真理の中=生ける真水の中にしか生きられないから。
自分のエッセンス=神の真理=真実を求め渇望するのでしょう。真水に別物が混じると苦しくなる。命が死にます。酸素が壊されます。タバコの煙を吸わされる様に正常な呼吸が出来なくなる。
世界は神の言葉の真実と言う情報に触れて、気が付き始めて
いる。
神の言葉に関しての不正な情報は正されるべきものであると
誰も疑いなくそう考えるはずです。いや正されるべき教えなど
自分は信じて無いと思っているのです。神学=神の言葉だと
疑わずに信じているから。
でも、神の言葉に関して、敵対する教えが神から発するものではある訳無い事が聖書には書かれています。トラーを知るユダヤ人がその様な考えなど絶対しません。
聖書全体全部をちゃんと読んだ事がない、教えられた事も無い、学んだ事が無いならば、人が言う主張が聖書とは異なる事さえにも気がつけないのです。
どうして神の言葉を否定せよ、捨てよと言う教えが、
神から発したものであると考えてしまったのか?
それは、人の作り出した教え=神学のコンセプト、思想の浸透、刷り込みが、伝統の中で固く揺るがない地位を獲得してしまった、それだけです。進化論と全く同じからくりです。
神の言葉の進化論=神学なのです。
時代により、変化、進化する。
聖書の事実では無い事を世界が疑いもなく受け入れているから。
伝統の教えで曲げられて語られる聖書箇所の土台は、
ただの人間が編み出した教え=神学の主張なのです。
聖書では無い。聖書に書いてない、根拠も無い、ただの人間の
主張。神学の主張と神の言葉とは全く逆のことが、
聖書には書いてあるのです。
”神の言葉”=トラーは破棄された、終わった、神の言葉は
呪い律法。これらは全部神学の教えであり、聖書では無いです。
それはこの地上の歴史の中で、最大の誤訳、不適切な翻訳用語、言葉です。エデンの園の騙しと同じです。
こう言っている事になるからです。
イエス キリスト=トラー=父の言葉=呪い、怒りの厳しい
律法?
イエシュアが教えて生きていたのは、トラーであると救い主の
口から直接語られているのです。全く辻褄合わない。
どうして?聖書にある言葉、事実を土台にすれば、
イエシュア =救い=トラー〜預言書。
だとしたら、トラー=呪い、律法=イエシュア ハ マシア
と言う教えは聖書ではない、変でしょう?
人の教えが挟まるから、聖書の神の言葉の事実とはそれる、
ずれる、変形するのです。
又は異邦人には呪いの律法=モーセの五書、それに付随する
聖書は終わったとする神学が解説する内容が、実は聖書では
無いのに、多くのクリスチャンは聖書の教えだと勘違いして
信じているからです。福音書〜黙示録=トラーだと言う事に
全く気が付いてないだけなのです。トラーの短いコメンタリーである、使徒達が書いた書簡。トラーを知らないなら、分からない
のだと思います。トラーを知る人は、福音書〜黙示録=トラー
預言書だけが書いてあると読み取れるのです。
いや、トラーが終わり、新しい契約、教えだと言う教えを本気で信じているから見えないだけです。
そして、キリスト教の教えの中で、聖書に関してされている
一般的な主流の解説は、実は人が作り出した神学を土台にして
翻訳聖書だけを通して解釈、解説されているので、その神学の
教え=伝統の教えとは違う事を聞くと、違和感があり、異質、
異端の教えの解説だとされていると思うのです。
でも、それはその様な神の言葉の解説を聞いた事が無いだけで、聖書では無いと言う事では無いのです。
聖書の事実なら、真実。聖書の事実とは違う何世紀にも渡る長年の教え、主流な教え、大衆に支持されている教えでも聖書では
無いなら、事実ではないし、神の言葉では無いのです。
進化論と全く同じなのです。
人の教えを擁護、サポートする=つまり聞き慣れた伝統 の教えが
正しいと信じるので、やっきになって異物=聞き慣れない教えを排除する、いやとっさに反発する、構えてしまう。
無意識に拒絶反応するのです。照らし合わせる基準が聖書ではなく、教えられて来た”人造哲学=神学”に照らし合わせて考えているからです。
でも、それでは聖書に戻り真実を探ると言う事が出来ない。
いや聖書に戻り確認すれば、良いだけなのです。
でも神学を信じる人は、聖書だけに戻り探ろうとしないでしょうね。
でも、神の言われる本当の声=言葉を知りたいと願うなら、
その時に、聖書に書いてある言葉を曲げない事です。
臭い箇所=聖書、神の言葉、契約は現代は廃れた、終わった、
呪いの律法で、今は恵の聖霊時代と言う人が編み出した神学の
教えを絶対に基準にしない、削除しないかぎり、聖書に書いてある通りには読めないので、真実が見えないと言う事なのです。
聖書=原典言語の意味とは違うずれた解説。
続く