初めて神の語られる声を聞いた感動とは | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉に敵対する様に教えられるほど悲しいものはない。

 

本当は、本当の福音さえ聞くことを遮られて来た事に

気が付けないだけ。

 

神の言葉、真実に触れたら、全く別世界の事が語られている事

発見します。

 

こんな感じ。人は関係の世界に造られている。

神と人と顔と顔を合わせる究極の親しさが欠ける世界に

いたら、虚しい、悲しい、渇く、満たされない。

でも、本当の関係、エッセンスを生きる時

喜びが湧き出る。腹の底から怒涛の様に流れ出ると

イエシュアが言われた通り。

 

人が神の言葉ではないものを聞くときに、必ずエッセンス、

喜び、本来の関係に蓋がされてしまうのです。

 

人の教え、哲学に妨害されたら、神に直にピュアに顔と顔を

合わせて繋がれないから。色が無い、音がない、絵がない

世界、無味乾燥な世界を見ている様。

 

神の言葉だけに直につながれば、神に出会う。

感動に出会う。本当の自分に出会える。

 

だから神の言葉=羊飼いの声だけを聞き分けてと

言われたのでしょう。

動画で見ればはっきり分かる。

人のデザイン、エッセンス。

人の教え=人を殺す文字で書かれた人の教えではなく

神の生の直接の言葉=トラーを聞きたい。

アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ

ダビデ、預言者、使徒たち、パウロや1世紀のイエシュア信者たちの様に。同じ永遠普遍の神の言葉=教え=福音=トラーを聞き続けたい。人の教えや哲学で混ぜられた教えではない、

純粋でピュアな神の言葉を、命がけで記された神の言葉=

イエシュアそのものが書かれているものだけから

読み続けよう。

 

涙無しには見れない動画です。

 

下矢印

 

ママの声を初めて聞いた赤ちゃんの感動の表情 表現

 

 

パパが帰ってきた感激する子供達

 

怒りの神、七へんげの気まぐれな神なんて教えられたら

近づきたく無い怖い存在の神を刷り込まれてしまう。

創造主、アバ父は、恵と愛と許しと憐れみに富むと初めから

人に紹介しているのに。優しい父ではなく、怒りの呪いの律法を

与える怖い厳しい神=父?その人の中にある歪んだ自己像や、

偏見から眺めるイスラエルの神=父を語っているだけ。

 

神の言葉を変形した宗教の教えを聞けば、神と出会う、人との本当の関係を享受する、純粋に単純な喜びは消えてしまう。

ノルマ達成、宗教の教えのゴールをやらされる別物の世界を

生きる様には人は造られていないのです。

 

兵役から戻ったお父さんに会うサプライズ

 

赤ちゃんでも気がつく 神の造られた世界の素晴らしさ

 

初めて神の造られた世界を色で見た感激

 

人の教えで本当のあなたが見えなかった。

人の教えで、あなたは呪い、怒りの神と信じた初めに教えられてしまったから、本当の親しい、密で喜びピュアで何も恐れずに

顔と顔を合わせる関係が遮られてしまった。

 

コバーン。生贄と訳されている、本当は”draw near"

近づく、引き寄せられる。神のただ中に引き寄せられる。

神の家=茶の間の真ん中のテーブル=祭壇の前で

祝宴をする喜びに招かれている。

究極の関係の中に引き入れて下さっているのに

人の教えがそれを遮って、妨害してしまう。