神の言葉に敵対する様に教えられるほど悲しいものはない。
本当は、本当の福音さえ聞くことを遮られて来た事に
気が付けないだけ。
神の言葉、真実に触れたら、全く別世界の事が語られている事
発見します。
こんな感じ。人は関係の世界に造られている。
神と人と顔と顔を合わせる究極の親しさが欠ける世界に
いたら、虚しい、悲しい、渇く、満たされない。
でも、本当の関係、エッセンスを生きる時
喜びが湧き出る。腹の底から怒涛の様に流れ出ると
イエシュアが言われた通り。
人が神の言葉ではないものを聞くときに、必ずエッセンス、
喜び、本来の関係に蓋がされてしまうのです。
人の教え、哲学に妨害されたら、神に直にピュアに顔と顔を
合わせて繋がれないから。色が無い、音がない、絵がない
世界、無味乾燥な世界を見ている様。
神の言葉だけに直につながれば、神に出会う。
感動に出会う。本当の自分に出会える。
だから神の言葉=羊飼いの声だけを聞き分けてと
言われたのでしょう。
動画で見ればはっきり分かる。
人のデザイン、エッセンス。
人の教え=人を殺す文字で書かれた人の教えではなく
神の生の直接の言葉=トラーを聞きたい。
アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ
ダビデ、預言者、使徒たち、パウロや1世紀のイエシュア信者たちの様に。同じ永遠普遍の神の言葉=教え=福音=トラーを聞き続けたい。人の教えや哲学で混ぜられた教えではない、
純粋でピュアな神の言葉を、命がけで記された神の言葉=
イエシュアそのものが書かれているものだけから
読み続けよう。
涙無しには見れない動画です。
怒りの神、七へんげの気まぐれな神なんて教えられたら
近づきたく無い怖い存在の神を刷り込まれてしまう。
創造主、アバ父は、恵と愛と許しと憐れみに富むと初めから
人に紹介しているのに。優しい父ではなく、怒りの呪いの律法を
与える怖い厳しい神=父?その人の中にある歪んだ自己像や、
偏見から眺めるイスラエルの神=父を語っているだけ。
神の言葉を変形した宗教の教えを聞けば、神と出会う、人との本当の関係を享受する、純粋に単純な喜びは消えてしまう。
ノルマ達成、宗教の教えのゴールをやらされる別物の世界を
生きる様には人は造られていないのです。
人の教えで本当のあなたが見えなかった。
人の教えで、あなたは呪い、怒りの神と信じた初めに教えられてしまったから、本当の親しい、密で喜びピュアで何も恐れずに
顔と顔を合わせる関係が遮られてしまった。
コバーン。生贄と訳されている、本当は”draw near"
近づく、引き寄せられる。神のただ中に引き寄せられる。
神の家=茶の間の真ん中のテーブル=祭壇の前で
祝宴をする喜びに招かれている。
究極の関係の中に引き入れて下さっているのに
人の教えがそれを遮って、妨害してしまう。