神が神の言葉に対して敵対、廃止、矛盾する箇所は聖書の中ではゼロ 誤解箇所 神学 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の最初の70%=創世記〜マラキと、後の30%=マタイ〜=黙示録では、全く同じ同一のテーマ、メッセージ、内容が

一貫して変化の無い1つの神の言葉であるのに、西洋宗教の

世界では古い教えと新しい教えと完全に2つ別々に区分けして

教えられています。

しかも、ほとんどの人が最初の70%をじっくり学んだこともない、いや読んだ事が無いと言うのが、普通の事になっているのです。初めから読んで無いのに、どうして分かるの?て考える

必要があります。聖書を書いてある通りに教えられた事がなければ、聖書に書いてある内容通りを知る、正しい手ほどき、

紐解き、解説ぬきでは、伝統の教え=人の言い伝えが神の言葉であると信じてしまう。神の言葉を神が拒否しなさいと言っているなどと言う教えが、聖書の真実だと信じてしまうのでしょう。

 

1つの神の書であるのに、旧約聖書と新約聖書と言うタイトル

ページまで挿入されてしまっているので、そのタイトルページの

おかげで、完全に聖書=神の言葉の性質とは違う意識を、無意識に浸透するまでに刷り込まれ続けているのです。

古い=悪い、呪い、廃れた律法。新しい=良い、最新式の福音、

聖霊時代、恵の教え。etc etc

 

この2つ区分けしたタイトルページは,神が挿入したものではなく

人の発想で勝手に後から付け加えられてしまった、

人造創作ページなのです。

マルキオンと言う2世紀のグノーシス主義を信奉する、当時の

異端的な教えをする人の考えが、聖書のタイトルページ創作と

言う形で残されてしまったと言うことが事実なのです。

 

聖書とは違う、様々な人間の教え、哲学、パウロが警告していた

”人の騙しごとの哲学〜虚しい不真実な教え”=神の言葉を否定し、拒否し、捨てるように人に教え、神の言葉を変形し、

聖書の中身を変えてしまう教えが、歴史を経るごとに様々に

出現し続け、神の言葉の真実が覆い隠され、塗り替えられて

今に至るのです。

 

ユダヤ人とて、中には、純粋に”神の言葉”だけではなく、

人の作り出した教え=口頭トラー=神の言葉をどう生きるか?

の解釈で、様々に人間視点の教えを編み出してしまった事も

福音書以降にも記され、書かれています。現代でもあります。

 

これは別の大きなトピックなので、いつか書いてみます。

イエシュアが地上に居られる時代にもその様な人間の考えを、

人が生きる様に強要することはあったのです。

直接イエシュアがその様な人の編み出した教えを強要している

人と対峙、議論している箇所が福音書にも残されています。

 

これは、手洗いの儀式を弟子がしないと言う批判をされた事件

としても書かれています。手洗いの儀式はトラーには無い教え

です。

これは、実は使徒10章のペテロの幻、15章のエルサレム会議にも繋がる内容なので、後ほど、どうしてその教えが当時の人に

とってそんなに重要な事だと思っていたのかの理由、原因、

意識の出どころを書きます。

 

だから、人の作り出した様々な教えと、聖書=神の言葉が混線していて、区別が付いてないと言う事がたくさんあるのです。

ユダヤ人の世界にも、もちろんクリスチャンの世界にも

神の言葉でも何でもない、単に人が作り出した教えをやらされたら、疲れるし、辟易するのです。やる必要ない。

人を縛るものです。人が人の上に立ち、人を支配、人の思索、

行動をコントロールしてしまうのです。

 

真理=神の言葉は人に本当の意味での解放を与え、自由にする

と書いてあります。

人の教えは、人を気が付かないまま、人を縛り付け、宗教の教えに変身する教えなので、人は苦しみ続けるのです。

たくさんのノルマを、スローガン、目標を達成させ続ける様に

教えられるから。苦痛。普通の生活プラス、活動をしなければ

いけないのだと、神から言われていると本気で誤解しているの

です。そして偽の自己像=主と共に死んだ壊れた自分を

修理し続けると言う教えを聞いてしまうのです。

 

どの様な形でも、神のデザインの自分のエッセンスからずれたり、外れた事をやらされたり、神の言葉、教えの意図とは

別の意識を放り込まれたら、不具合、不全が起こるのでしょう。

 

これは命の木と知識の木に繋がります。

どんなに世界が擁護、解説しようとも、神のデザインに反する

関係を結んだり、やったり、又その関係から外れた行為、

婚姻関係が許される相手以外との歪んだ関係を結べば、

気色悪いし、同時に周りの人を傷つけます。

他者をも汚染、悪影響を与えます。命も生み出さない。

良いこと1つも生み出さない。神の禁じた事は、人に危険なのです。

食べ物に関しての教えとて全く同じなのです。

いや食べ物が重要なのです。だから、聖書の最初の最初に食べる事に関して書いてあるのでしょう。

これを無視したアダムとイブの結末は、死です。ちゃんと

考えながら、アバ父が伝えている事、意図を読み取るのです。

 

偶像を見ても、違和感、気持ち悪いと感じるのは、ノーマル

正常な意識なのです。それは神のデザインでは無いから

人のエッセンスが拒絶反応を示すのです。口で説明しなくても

人の内側に綴られているトラーが拒否するからです。

 

神はイスラエルの神であり、イエシュアもヘブライ人であり、

西洋では無い理由があるのです。区別=聖別です。

聖別=食べ物の教えを通して、神の宮=天の祭司の姿を

教えているのです。だから神の指定したきよい動物しか

宮で捧げられない。けがれた動物==ありとあらゆる毒、ウイルスを取り込む目的で地上の水中の掃除機として作られた動物は、人も内側に取り込むのに適していない、人の食べ物として造られていない。神の宮の中にも持ち込めない、不適切な動物

神の前には捧げられないのです。

 

伝統的な西洋宗教の教えや、預言者でも無いただの普通の人が、

聖書が閉じられた後に発明、開発、発想した神学が、

しかも神の言葉=聖書を否定する教えを、神の言葉であるとする教えを信仰の土台としている場合、ほぼ100%と言って過言では無いほど、以下の教えを信仰の土台としていると思います。

 

2000年昇天以前は、キリストの血が流されていなかったので、仮の許ししか神から与えられていなくて、完全な許しがないので、呪いの律法に縛られていた。怒りの神の呪い、怒りが解除にならなかった。

 

救い主昇天以降、新しい時代の幕開け=怒りの神の時代は

終わり。生贄も捧げられなくなった。でも聖書には引き続き

神の宮でコバーンが捧げられています。

パウロも生贄を捧げて”ナジル人”の誓いをしています。

変でしょう?なんで?と考えないとならない箇所です。

 

昇天された後は、今までの呪いの律法は終止符を打ち、廃止

され、神の怒りがなだめられて、新しい恵の神が微笑み始め、

恵で何でも許される、今までに無かった聖霊時代の幕開けと

なった。恵の神の時代、聖霊が人の内側に初めて住まう事を

体験し生きる時代になった。新しいグループ=教会=異邦人が

初めて出現し、これからは世界のリーダーとなり、今までは

隠されていた神の奥義を初めて世の中に知らせる、世界に本当の福音を伝える役割を与えられた。

 

ざっとこんな感じだと思います。人により何を土台に信仰しているのか、それはその人に聞かないと詳細は見えませんが、

大体どこの国に言って、何人でもこんな教えを、私自身は聞いていました。

 

トラーは古い呪いの縛り、律法で厳しい教えだと本気で思う。

そして、福音書〜黙示録に書かれている事が、単にトラーの

短いコメンタリーである事に盲目なのです。トラーを知らないと

言う事が原因なのです。これははっきりと言えます。

聖書=トラー、預言書を本当に原典言語、ヘブライ思想から

読めば、同じ事、同じ福音が書いてあることがはっきり

明白に書かれているから分かるのです。

 

問題は、聖書を本当に読んだことがないと言うことに

あると言うことにまず気が付くことなのです。これは自分自身に

問えばすぐ分かる事です。聖書をじっくり読み続けていますか?と。書いてある本当の意味を知りながら、調べながら、

確かめながら読んでいますか?と。

注意深い学びは不可欠なのです。特に教える人達は。

 

 

 

 

続く