古い律法に戻るのか?と言うフレーズを何度も聞いて来て、
古い律法=モーセの五書、シナイ山で神から直接与えられた
全ての教え=インストラクション、それはもう終わりだ、
呪いの律法だと教えられました。
それが聖書に書かれている真実だと信じていました。
イエスさまが来て、呪い=神の言葉=トラーから解放してくださり、新しい新時代、恵の時代、聖霊の時代に入ったと本気で信じていました。
怒りの神はなだめられ、消え去り、だから今までの呪いの律法は消えたのだ〜、異邦人には関係の無い教えだ〜と。
でもその呪いの律法は、未だユダヤ人を縛りながら、ユダヤ人は
呪いの律法、呪いの律法主義的な神の記念日、祭りをやるのだ〜と教え続けられていますが、聞いてるだけで、辻褄合わない、
ひどい神像である事が分かるのです。
聖書は1つ。神の言葉は1つ。たくさんの書で出来ていますが
神の言葉はエハッド。神の性質と全く同じ。
複数、1つ以上で全く1つを表す言葉=エハッドの神、エハッド神の言葉なのです。創世記から黙示録まで、どの箇所も
全く同じテーマ、言葉、意味、同じ福音がずっと貫かれて
書かれています。永遠普遍の神の言葉だからです。
ローマ 6:14
聖書の箇所を不適切な翻訳で、誤解したまま読む、解説を
聴き続けているから、書いてあっても、書いてある通りに
見えないだけです。聖書に書いてある事がそのまま読み取れない。
その教えは、2世紀以降、神の言葉と神の時=記念日を変えようと試みた、神の言葉に対して反対する勢力から来たものです。
いや2世紀前もずっと神の言葉を削除しようとする勢力が
働いていました。エデンの園のはじめから。
これは、歴史の史実、事実を辿って行けば分かりますし、
聖書だけに戻り、パウロや、使徒や、預言者達が誰一人として
現代の神学が唱えるような、新時代の、異邦人の時代の
恵の時代の、新しい別の教え、契約、新しい神=聖霊時代になったなんて書いてないからです。
福音書〜黙示録=トラー、預言書なのです。
イエシュア=トラー、預言書=わたしそのものと言われたのに
トラー、預言書を否定して、終わり=怒り、律法と言う教えは、
イエシュア =呪い、怒り、律法と言う事になってしまうのです。
神の言葉の事実だけをつなぎ合わせて、考えてみれば見えます。
誤解している聖書の箇所や教えを、聖書だけに戻り1つ1つ解いて行く必要があります。その時、人が作り出した哲学=神学は
絶対に混入してはならないのです。それは聖書とは異なる教えが
盛り込まれているから、聖書をそのまま理解する上で、
障害物になるからです。
一番の問題は、神の言葉=トラー=聖書の70%は、律法だ〜
異邦人には終わりの教え、恵の無い教えだと教えられているので、聖書の最初の70%をほとんど読んだこともない、学んだ事
がない、トラーに書かれている本当の意味を聞いた事、
教えられた事もないと言う、その事が本当の問題の根なのだと
思います。読まずに食べたら分からないのです。
ある聖書の箇所をほんの数節だけ取り出して、ちょこっと
語られて、教えられているだけだと思います。
それは、1曲の大曲のほんの数小節のパッセージしか聞かないで、その曲を知っている、聞いたと思っている事と同じなのです。全体を全部を何度も何度も何度も聞いた事なければ、
その曲の内容、意味は分からない。
作曲者の意図や、背景や、様々な情報があればもっと
その曲に対しての理解が深まるのです。
読んだ事も、学んだ事もなければ、本の表紙だけみて、
中身を知らないのと同じ事です。
誰かから聞いた”噂”を信じているだけと言う事になります。
ユダヤ人で、聖書に登場する、預言書や、使徒達、又は1世紀の
イエシュア信者達、ユダヤ人、それ以降のローマ皇帝に迫害されていたユダヤ人、もしくは少数の異邦人イエシュア信者、
現代のトラーを知る生きるユダヤ人、ユダヤ人イエシュア信者、又は異邦人でトラーを生きるイエシュア信者の間で、
律法=廃れた=呪いだ〜と考える人は誰一人として居ないのです。
これは、翻訳聖書を読んでも分かる事です。
たくさんの箇所に関して、神の言葉は変わったのだと、
誤解して聖書を解説されてしまっているのです。
3月10日に書いた記事です。
昇天以降、使徒20:7 日曜日礼拝に変更したと誤解している箇所の記事
この様な考えや誤解を、トラーを知るイエシュア信者は100%
しないのです。
どの様な聖書箇所でも、神がご自身の言葉=モーセの五書とは
違う教えなど10000000%、永遠にありえない、しないと言う”事実” ”真理”に基づかないならば、どの様な聖書の解説でも出来ますし、神の言葉を変形する事も出来ます。
でもトラーを本当に知る人なら、それは変わる神の言葉、契約
約束を、途中で変えると言う事が、神の言葉=聖書の事実では無いと知っているのです。
なぜ?神が永遠と言う意味は、永遠だから。
代々に渡り永遠〜ドラタム ブリット オラーム
神の契約は永遠と、ヘブライ語を聞けば、神の意図通り、その通りに聞こえます。永遠は永遠なのです。他の意味は無い。
永遠に変わらないと言えば、変わらないに決まっていると
知っている。でも異邦人にはそのコンセプトが頭の中には
無いから、言われてもそう聞こえない、神の言葉で表される
意味通りを聞こうとしない事が本当に問題なのです。
エペソ2:12-19
この箇所だけ読んでも、神学の唱える2つ別のグループである
事が不真実な空想の教えである事は簡単に読み取れる箇所です。
エペソ 2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約=トラーに縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法=人間の作り出した
教え、罪の法則=を廃棄したのである。それは、彼にあって、
二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
デイスペンセーション神学はこの神の言葉をも否定して、
2つの別々のグループであると主張しますが、逆です。
2つのものを1つにした!と書いてあるでしょう?
ちゃんと偏見無しに読めば誰でも真実が分かるはずです。
聖書の最初から最後まで1つ、1体、一つのカハール=
エクレシア=神の1つの大家族である事実がずっと聖書に
貫かれて書かれています。
アダムと言う一人の人から、エバが作られて、1つの人から
家族が生まれた。1体と言う事実がずっと書かれています。
途中から出現した”教会”と聖書の意味にそぐわない造語で
表される別のグループは、実は聖書には無い言葉、
聖書には無いコンセプト、書かれていないと言うのが聖書の
事実です。
同じ1つのカハールが最初から存在し、黙示録の最後で
エデンに1つ神の中に、1つの家族として戻る記録が聖書の事実です。
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
ちゃんと2つのものを1つ=主イエシュア に在って1つと書いてあるでしょう。事実だけを繋げて考えるのです。人の教えは
神の言葉を妨害、否定、壊して行きます。
2:17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
平和=シャローム=トラーに書かれた欠けの無い、家族の実態の事です。
2:18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。
2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
続く