聖書を誤解して読む原因は 人の言い伝え 何世紀にも渡る伝統の教えを信じて聖書を信じない事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

古い律法に戻るのか?と言うフレーズを何度も聞いて来て、

古い律法=モーセの五書、シナイ山で神から直接与えられた

全ての教え=インストラクション、それはもう終わりだ、

呪いの律法だと教えられました。

それが聖書に書かれている真実だと信じていました。

 

イエスさまが来て、呪い=神の言葉=トラーから解放してくださり、新しい新時代、恵の時代、聖霊の時代に入ったと本気で信じていました。

怒りの神はなだめられ、消え去り、だから今までの呪いの律法は消えたのだ〜、異邦人には関係の無い教えだ〜と。

でもその呪いの律法は、未だユダヤ人を縛りながら、ユダヤ人は

呪いの律法、呪いの律法主義的な神の記念日、祭りをやるのだ〜と教え続けられていますが、聞いてるだけで、辻褄合わない、

ひどい神像である事が分かるのです。

 

聖書は1つ。神の言葉は1つ。たくさんの書で出来ていますが

神の言葉はエハッド。神の性質と全く同じ。

複数、1つ以上で全く1つを表す言葉=エハッドの神、エハッド神の言葉なのです。創世記から黙示録まで、どの箇所も

全く同じテーマ、言葉、意味、同じ福音がずっと貫かれて

書かれています。永遠普遍の神の言葉だからです。

 

ローマ 6:14 

なぜなら、あなたがたは律法の下=律法=ノモス=罪の法則の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
 
律法=ノモス=神の言葉であると、この箇所を誤解すれば、
神のトラー=言葉=教え、インストラクションは悪いものだと
誤解したままになっているでしょう。
ノモスと言う多様性のある言葉を、元の意味に直して読めば、
誤解は簡単に解けます。パウロが辻褄ぴったり合う事を話している事にも気がつけます。
 
ローマ7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法=ノモス=罪の法則から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
 
古い文字=モーセの五書ではありません。人間の哲学、教えの
事を話しているのです。様々な聖書の箇所の誤解=神の言葉は2000年以降変わった別の教えだと信じているのは、人が解説
する神学が聖書の真実だと信じているからです。
 
聖書を言語で書かれた意味通りに読む事が無いなら、聖書に書いてある本当の意味を知る事が無いなら、不適切な翻訳、
人の解説、コメンタリーが妨害の素、聖書に書かれている内容では無い事に気がつかないのです。
 
ローマ7:12 このようなわけで、律法=ノモス=トラー=神の教え、インストラクションそのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
トラーは呪いだ、律法だと言いながら、トラーは聖なる
善であり、正しいものなんて言うパウロの発言、辻褄
合わない事に気がつくでしょう?
罪の法則=ノモス=聖であるなんて変だと分かるでしょう?
 
神の言葉が変わるとは、聖書に基づけば、その教え、理論は100%誤解です。異邦人は多神教、異教の神々の教えに染まっているので、イスラエルの神の性質、神の言葉=神、永遠に
変わらないと言う事実、コンセプトが頭の中にゼロなのです。
 

聖書の箇所を不適切な翻訳で、誤解したまま読む、解説を

聴き続けているから、書いてあっても、書いてある通りに

見えないだけです。聖書に書いてある事がそのまま読み取れない。

その教えは、2世紀以降、神の言葉と神の時=記念日を変えようと試みた、神の言葉に対して反対する勢力から来たものです。

いや2世紀前もずっと神の言葉を削除しようとする勢力が

働いていました。エデンの園のはじめから。

 

これは、歴史の史実、事実を辿って行けば分かりますし、

聖書だけに戻り、パウロや、使徒や、預言者達が誰一人として

現代の神学が唱えるような、新時代の、異邦人の時代の

恵の時代の、新しい別の教え、契約、新しい神=聖霊時代になったなんて書いてないからです。

福音書〜黙示録=トラー、預言書なのです。

イエシュア=トラー、預言書=わたしそのものと言われたのに

トラー、預言書を否定して、終わり=怒り、律法と言う教えは、

イエシュア =呪い、怒り、律法と言う事になってしまうのです。

神の言葉の事実だけをつなぎ合わせて、考えてみれば見えます。

 

誤解している聖書の箇所や教えを、聖書だけに戻り1つ1つ解いて行く必要があります。その時、人が作り出した哲学=神学は

絶対に混入してはならないのです。それは聖書とは異なる教えが

盛り込まれているから、聖書をそのまま理解する上で、

障害物になるからです。

 

一番の問題は、神の言葉=トラー=聖書の70%は、律法だ〜

異邦人には終わりの教え、恵の無い教えだと教えられているので、聖書の最初の70%をほとんど読んだこともない、学んだ事

がない、トラーに書かれている本当の意味を聞いた事、

教えられた事もないと言う、その事が本当の問題の根なのだと

思います。読まずに食べたら分からないのです。

 

ある聖書の箇所をほんの数節だけ取り出して、ちょこっと

語られて、教えられているだけだと思います。

それは、1曲の大曲のほんの数小節のパッセージしか聞かないで、その曲を知っている、聞いたと思っている事と同じなのです。全体を全部を何度も何度も何度も聞いた事なければ、

その曲の内容、意味は分からない。

作曲者の意図や、背景や、様々な情報があればもっと

その曲に対しての理解が深まるのです。

 

読んだ事も、学んだ事もなければ、本の表紙だけみて、

中身を知らないのと同じ事です。

誰かから聞いた”噂”を信じているだけと言う事になります。

 

ユダヤ人で、聖書に登場する、預言書や、使徒達、又は1世紀の

イエシュア信者達、ユダヤ人、それ以降のローマ皇帝に迫害されていたユダヤ人、もしくは少数の異邦人イエシュア信者、

現代のトラーを知る生きるユダヤ人、ユダヤ人イエシュア信者、又は異邦人でトラーを生きるイエシュア信者の間で、

律法=廃れた=呪いだ〜と考える人は誰一人として居ないのです。

 

これは、翻訳聖書を読んでも分かる事です。

たくさんの箇所に関して、神の言葉は変わったのだと、

誤解して聖書を解説されてしまっているのです。

3月10日に書いた記事です。

下矢印

昇天以降、使徒20:7 日曜日礼拝に変更したと誤解している箇所の記事

 

この様な考えや誤解を、トラーを知るイエシュア信者は100%

しないのです。

 

 

どの様な聖書箇所でも、神がご自身の言葉=モーセの五書とは

違う教えなど10000000%、永遠にありえない、しないと言う”事実” ”真理”に基づかないならば、どの様な聖書の解説でも出来ますし、神の言葉を変形する事も出来ます。

 

でもトラーを本当に知る人なら、それは変わる神の言葉、契約

約束を、途中で変えると言う事が、神の言葉=聖書の事実では無いと知っているのです。

なぜ?神が永遠と言う意味は、永遠だから。

代々に渡り永遠〜ドラタム ブリット オラーム

神の契約は永遠と、ヘブライ語を聞けば、神の意図通り、その通りに聞こえます。永遠は永遠なのです。他の意味は無い。

永遠に変わらないと言えば、変わらないに決まっていると

知っている。でも異邦人にはそのコンセプトが頭の中には

無いから、言われてもそう聞こえない、神の言葉で表される

意味通りを聞こうとしない事が本当に問題なのです。

エペソ2:12-19

この箇所だけ読んでも、神学の唱える2つ別のグループである

事が不真実な空想の教えである事は簡単に読み取れる箇所です。

 

エペソ 2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、

 

2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約=トラーに縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

 

 2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

 

2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、

 

 2:15 数々の規定から成っている戒めの律法=人間の作り出した

教え、罪の法則=を廃棄したのである。それは、彼にあって、

二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、

 

デイスペンセーション神学はこの神の言葉をも否定して、

2つの別々のグループであると主張しますが、逆です。

2つのものを1つにした!と書いてあるでしょう?

ちゃんと偏見無しに読めば誰でも真実が分かるはずです。

 

聖書の最初から最後まで1つ、1体、一つのカハール=

エクレシア=神の1つの大家族である事実がずっと聖書に

貫かれて書かれています。

アダムと言う一人の人から、エバが作られて、1つの人から

家族が生まれた。1体と言う事実がずっと書かれています。

途中から出現した”教会”と聖書の意味にそぐわない造語で

表される別のグループは、実は聖書には無い言葉、

聖書には無いコンセプト、書かれていないと言うのが聖書の

事実です。

同じ1つのカハールが最初から存在し、黙示録の最後で

エデンに1つ神の中に、1つの家族として戻る記録が聖書の事実です。

 

2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

ちゃんと2つのものを1つ=主イエシュア に在って1つと書いてあるでしょう。事実だけを繋げて考えるのです。人の教えは

神の言葉を妨害、否定、壊して行きます。

 

2:17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。

平和=シャローム=トラーに書かれた欠けの無い、家族の実態の事です。

 

2:18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。

 

2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

 

2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。

 

 

 

続く