嵐の中でも永遠の神の中 天の現実の中 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉、聖書に対する誤解の原因は、創世記の最初に書いて

あるエデンの園の事件と全く同一の理由だと思います。

 

”命の木”から食べなさいと言われた神の言葉を、ちょっとでも

疑い始める事です。神のことばでは無い事=人の発想、哲学や

教えを取り入れて、神の言葉であるのだと塗り替える事です。

 

神の言葉、約束、保証、契約が絶対=変わらない、永遠と言う

神が宣言する事実に対して疑い始める事です。

 

これはアダムとエバが抱いた神の言葉への疑いと全く同じ

エッセンス、性質、内容なのです。

 

命の木=神の言葉通りからだけ食べて。

神の言葉だけに注意を向けてと言われた。

知識の木=神の見る見方とは違う、別の見方をする、

神の言われた通りでは無い事から食べてはダメと言われた。

でも、神に言われた事をそのまま受け取り、行動しない。

これがいつの時も諸悪の根源であり、預言者の警告でもある

のです。神の言葉=インストラクション=教えに戻れ!と。

 

神の言葉、インストラクション、教えが、モーセの五書であると

考えないし、思えないし、福音書〜黙示録は別物の教えと

本気で考えているから。

律法=モーセの五書と教えらているし、しかも怒りの神の時代の

呪いの律法だとまで教えられます。

そんな事聖書のどっこにも書かれていませんと言うのが

神の言葉の事実です。

 

福音書以降に書かれている内容は、本当に”モーセの五書”の

要約でしか無いのです。

愛、罪、救い、贖い、恵、許し、希望、祝福、喜び、寛容、

親切、善意、忍耐、柔和、天の1つ家族の生きる姿、

修復の仕方、衣食住、結婚について、夫婦について、

社会生活、神に在るビジネスの仕方、コミュニテイの生き方、

憲法、法律、法廷での対応、etc etc etc

 

人が生きる分野での全ての範囲、必要な全て、神にデザイン

された人間の生き方、人のエッセンスはこうであると言う

詳細が書かれているのが、トラー=モーセの五書なのです。

ほとんどのモーセの五書の箇所を読んだ事も無い、しかも

ヘブライ語で書かれている本当の意味、内容を教えられた事も

なければ、聖書に実際に何が書いてあるのか知らないと言う事

になるのです。

それなのに、知らないまま始めから決めつけているのです。

神の言葉は、呪いの律法だ〜終わった〜と。そう言うように、

考えるように教えられてしまったからです。読まずに食べたの

世界。

 

どんなにアバ父が弱いものを配慮し、全ての人をガードするための教えの全て伝えているのか、学べば必ず驚愕発見します。

 

その書を土台に預言書以降の聖書全ては書かれている事を、

まず知れば聖書が見えてきます。どの聖書の箇所、神の言葉も、

神の言葉が神の言葉に対して、敵対なんてしていない事、

一貫して同じ事、同じ福音が最初から最後まで書かれている事に気が付く事が出来ます。これはヘブライ語で読めばもう疑う余地なく、分かりますが。同じ言葉で同じ意味で同じ内容、

同じ福音=救い=イエシュアがずっと書かれているからです。

途中で変化しないから。

 

神の言葉を疑えば、しかも永遠に同じ変わらない神の言葉なんて言われても、しかも古いと、前半のタイトルページに書かれて、教えられてしまっているから、なが〜い年月の間には、

もうそれは無効、終わったかも?聖書に書いてある意味は

違う意味?書いてある通りにも読まないように教えられてしまった。書いてあっても、今はほとんどの人=ユダヤ人以外には無効の呪いの律法。

 

ユダヤ人と異邦人には別の教え?今はハイパーパワーのある

聖霊時代さ〜と、様々な憶測で、聖書の記述を

塗り替えて行く事が出来ますし、してきました。

聖霊=神は永遠から永遠に存在し、創造の始めから同じ神が

人と共に住まっている事実を知らないのだと思います。

 

 

神の言葉をどの部分でも否定したら、拒否したら、そこから

”ズレ” ”破壊” ”死” ”分裂” ”隔たり”が生まれてしまう記録が

はっきりと書いてあります。

最初の最初に書いてある”神からの警告”です。

 

霊的戦いとは、空中にぼんやり浮遊するものに襲われるような

得体の知れないものに掴まれるとか、倒されるとか、

そのようなそんな事ではないでしょう。

 

不安に襲われるのは、平安が奪われるのは、暗く落ち込む時

どう言う状態の時?神の言われた言葉を忘れて、目の前の出来事にとらわれてしまうから、不安が入り込む。ガード=神の言葉の

鎧兜で思索を固めていない状態。

神の言葉、約束より、”銀行残高”の数字の方がよっぽど安心出来るなど。目に見える、この世の保証の方が、神の言葉より確かに

思い始める時に、不安になるのでしょう。

この世の保証や、コンピューターの数字なんていつ吹っ飛ぶのか

それほど、世の中の事は当てにならないものなのです。実は。

 

あなたの必要の全てを天の無尽蔵の中に用意しているから、

そこから必ず与える、与えて満たすと神の言葉の約束を通して

語られても、言われていても、そんな不確かに感じる保証より、この世の保証の方が頼りになる感じがするのでは?

 

この世界の中で、誰一人として、自分の命を支えられる人なんて

居ないのです。どんなに偉いポジションに居ても、国の大統領でも、王様でも。大金持ちでも。ただ今を生かされているだけ。

 

1秒先の事なんて誰も本当に分からないのに、これだけあれば

安心とか、あれが無いから不安とか、これがあるからダメだとか、空想の世界で、ストーリー構成をして、不安になっている。

 

思索のハイジャック、乗っ取りが一番のキーポイントだと思います。天の現実の中に居たイエシュアは、大嵐のガリラヤ湖の

揺れる大波の上、一人舟の中でゆったり寝ていたでしょう。

弟子たちはパニック状態。イエシュア は天の現実の中で

ナファーシュ、ゆったりぴったりリラックスしてお任せして

寝ていたのでしょう。マタイ 8:23-27

 

ここ=あたま=ローシュ=頭脳=思索をハイジャックして、

騙せたら、錯乱したら、コントロール出来るのです。

操縦桿を握られてしまうようなものです。

行くべき方向に進めずに、違う場所に向かって進む。

 

進化論信じるとは、嘘を信じていることでしょう。

本気で嘘を真実だと信じている。疑いもなく。

本当では無い事を本当だと思い込めるのです。でも嘘は真実=

神の実態に繋がれないのです。

どんなピースも同じ。嘘と真実は繋がらないから、神の言葉の

真実、事実では無いものと繋げてはダメなのです。

 

神の言葉に幕をかける、おおいを掛けて事実を見えなくする。

変形させる。その警告がずっと、聖書の最初から最後まで

書いてあります。

 

なぜ、10の言葉で、〜するなかれと書いてあるのか、

〜しなさいと書いてあるのか、シンプルに明白です。

〜これらはあなたのエッセンスでは無いから、〜しないのです。

〜これらは、あなたのエッンスだからその通りに生きなさい。

と書いてある。

 

殺すなかれとありますが、まさか人を殺そうなんて思いません。

でも、殺すと言う事は、物理的には、誰かを自分の世界の

存在から消す事です。

でも物理的ではなく、主観的、想像上殺す=消す事も出来るの

です。どうするのでしょう?無視する、関わりを断つ事です。

 

殺すなかれとは、神の言葉を無視する事にも直結しているの

です。救われた人は、イエスさまを愛してる、神を愛すると考えるし、そうしていると思いますが、知らない間に、愛する神を

無視もしています。

どうやって?神の言葉を捨てる、退ける、終わりだから関係ないと関わらない、読まない、考えない、知ろうともしない。

 

その行為により、神の実態=関係を捨てているのです。

無視している。自分の世界の外に追い出しているのです。

知らない間にしている。いやさせられている。

 

無法をなすものとイエシュアが言われた事はその事なのです。

あなたの名=実態で、色々やっています、サタンも追い出すし、奉仕もしていますと言った人に、イエシュア は、トラーから

ずれた事、違う事をしている、無法=違う事土台にする人たち、わたしに属する事では無いから、あなたを知らない=契約の関係の絆の中には居ないと原典では書いてあるからです。

ひどい事言うと思いますか?ひどい救い主?いや真実を直に

語らなければ、ずれている事に気がつけないから本当の事

言われたのでしょう。

神に取って、人がどんなに熱心とか、動機が純粋だとか、

どんなに一生懸命、伝道のために考え出して作った教えだとか、方法だとか、それらは全て、全く関係ない事だと書いてあります。”神の言った通り”〜命の木から食べて!これに尽きるから。

イエスさまが言った=父の言葉だけ、父が言ったら言う、黙ったら黙る。進めと言われたら進む、止まれと言われたら止まる。

父から離れて何もしない、出来ない。これです。

 

わたしを愛する人は、父の言葉を愛する、生きるとは、

”トラー”=モーセの五書に書かれた生き方=シナイ山で与えられたトラー=父の言葉を生きるとはっきり書いてありますが

そう読み取っていないのは、イエシュアがトラーとは別物の

教えをしていると教えられているから。

父の言葉とは何か?知らないから。イエシュア が語っている

父の言葉=トラーなのです。

聖書の事実を繋げて行けば、イエシュアもパウロも100%トラーだけを、教え、語り、生きている事に気がつけます。

 

 

続く