神が語られた永遠に変わらない 代々に永遠に祝う神の子らのための日 シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

世界を混乱させるもの、出来事があっても、シャバットは

”天”の中に居ることを思い出す、止まる日。

 

ここのところ、4週連続、週末は各国関係の行事に参加させてもらっています。どんな職業、立場だろうとも、皆同じ”人間”で

ある事、痛感します。普通の人達。

今まで出会ったことの無い人々、興味深い体験ばかりです。

 

先週の月曜日から火曜日がプリムの祭りで、エステル記を読み、皆で集まり、祝う、楽しい時を過ごしました。

月曜日は、子供達の用事があるので、8日日曜日に前倒して、

友人達を招いて、我が家で祝いました。10日火曜日は、

ユダヤ人のグループに招かれて、朗読と、プレーと、

晩餐に参加させてもらいました。

 

アダルの月の15日の出来事。ユダヤ民族全殺戮を企てた

ハマンは、結局自分が作った木に、最後かけれて処刑されます。

エステル記朗読し、ハマンの名が出ると、皆で楽器や、道具や

机を叩いて、騒音を出します。

プリムとハヌカは、レビ記23章の主の祭りではありませんが、

歴史の史実で、両方とも満月の日です。

過越も、仮庵ももちろん、満月の時に始まります。

 

今週のパラシャー=פָּרָשָׁה=トラーの朗読箇所は、

出エジプト30:11−34:35です。

1年サイクルと3年サイクルで読むプランがありますが、

全世界何処の国、場所に居ても、同じ箇所を読みます。

 

世界中に居るユダヤ人、特にラビ達は、どの母国語であろうと

どの国に住んでいても、”ヘブライ語”聖書を普通にスラスラ読む訓練を受けています。お見事としか言い様がないです。

ラビ以外の普通の人も家庭や学校でヘブライ語聖書を読む訓練を

受けます。

同様にヘブライ語を読めないユダヤ人はいますし、それどころか聖書など読んだことさえ無いユダヤ人もたくさん居るのです。

 

聖書に根付いた教育を受けさせる家庭と、そうでは無い家庭と

千差万別である事も事実です。

 

聖書を教えるラビ達は、ヘブライ語聖書を読めるだけではなく、深い学びをする訓練を受けています。日々ずっと学び続けます。

これは、やはり彼らユダヤ人は神の言葉を世界へ伝える役割、

聖書を書いて、書き記し続ける役割を与えられているから

でしょう。

いつか、ユダヤ人が、預言にある通り、2000年前にイスラエルに来られたイエシュアが、トラー預言書に書かれた救い主で

ある事を知る日が来るとありますから。

ラビの解説を聞くと、実に深い聖書の解説がたくさあります。

同時にイエシュア=トラー、預言書の救い主であることを知らない場合、何処がボヤケて見えていないのかと言うことも、

はっきり分かります。

西洋宗教神学に影響されていない、イエシュア信者である

ヘブライ語トラー教師は、もっと色々な事が見えます。

 

さて、今週のパラシャーは、出エジプト30:11−34:35までです。

この箇所は、モーセがシナイ山で、40日40夜過ごし、

神の全ての教え=トラーの最後の部分まで聞かされて、

山の下に降りる直前までの記録です。

 

ここ、面白い場面だと思います。色々不思議な事が書いてあるからです。モーセが居たシナイ山、雲の中は”天”です。

だからユダヤ人は、山=天と言うコンセプトがあるのですね。

だから、ダビデが”山を見上げて、私の助けはどこから来る?”

と言った、あの山=天から来ると山を見上げているのでしょう。

 

シナイ山の上は、場所を超えた場所=天です。

この世の時空を超えた場所です。

地上なのに天が降りてきて繋がっています。

 

だから、人々は、山にも触れることが出来ないと警告されたのでしょう。

神が気まぐれで、意地悪だからそんな事言ったのでしょうか?

そこは、肉のままの状態の人が入れない危険区域。

天の領域は危険では無いけれど、そのままでは入り込めない

から肉の人には危険なのでしょう。

あれと同じです。命の木からは、そのままではアクセス出来ない。だからエデンの外に出た。全部繋がっていますね。

 

そこは、人間の入れるスペースでは無い、そこにはこの世の時間は無い場所。だから入れない。

 

だからこの世から出た人と交流出来ないのと同じ。別の場所、

別の時空だからでしょう。だから、山=天の領域に入る、

触れば死ぬと警告されたのでしょう。

 

でもモーセだけは入れました。

民数記12:7 

しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。

とあります。

過去にもいましたね。ヤコブやアブラハムや、ノアや。

神と直に繋がっていた人達。

モーセが40日40夜、この世の食べ物も水も飲まないで、

何も影響されず、神との素晴らしい、天の時間を享受していた!

だから、普通に40日間生き延びていたのでしょう。

神と直接繋がり養われて居た。天の中に居た。

そうではなければ、苦痛でしか無い。いや死にます。

人は3、4日水を飲まなければ、死にます。

食物は最高3週間くらい食べなくても生き延びることが

出来るそうですが。

 

モーセは天の現実の中に、神と共に居たのです。

しかも、最高の時間。どんなでしょうね。

神の栄光、喜び、エデンそのものの中。

だから、モーセが山から降りてきたら、神の栄光、光を

反映して、人が直接モーセを見ることが出来なかった事が

書かれています。

人が神と直接顔を合わせたら死ぬ。でも顔を合わせられる状態の人は死なない。

 

モーセが神との最高に幸せなヘブンリーな時を過ごしている間、山の下の地上では、もうモーセは終わり、死んだかもと皆は

思い始めます。当然ですよね。

飲まず食わずに40日も生き延びれない。もう、モーセと言う

神との仲介者の事は当てにならない、諦めましょうと、

自分たちで編み出したプラン、以前の奴隷のまま、異教の神々に

仕えていたその習わし、方法、やり方でイスラエルの神の

祭りをしよう、礼拝しようとやってしまっていました。

エジプトから持ち出した最高の宝=金を捧げて、金の子牛の

像を作ってしまった。

 

 

この出エジプト30章から34章、モーセが神の教えを全部聞いた、その全部の教えを聴き終える一番最後に神に言われた

言葉は何だったでしょう?

 

出エジプト31:16 

ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。
 
出エジプト25−31にずっと”神の家”=ミシュカンを
作るインストラクションの詳細が書かれています。
地上で、直接天と同じ神の家を作る。
これイエシュアそのものでもあるのです。
実際に五感を通して、体験出来る場所=スペース。
神の臨在がこの地上で宿る場所です。
イエシュアも歴史の中のある限られた時間”人として”
現れましたね。それこそ現人神です。
神がどの様にどの形で現れても自由自在。神の自由です。
神の家、神の選んだ国、場所=エルサレムに神の家を作る。
自由でしょう。神の。
移動式、ミシュカンにも、神の臨在が宿っていた。
神の”契約”の箱の中にも。
 
この神の言葉、最後のインストラクションは”シャバット”に関してです。いきなりミシュカンを作るインストラクションが
ずっと書かれた後、突然シャバットに関して神が伝えます。
その前に何度もシャバットに付いて教えているのにです。
 
このミシュカン=神の臨在が宿る場所。神と交流する場所と
神の時=シャバットは繋がっているのです。

 

続く