聖書に無い人間が作った神学=教えを土台に信仰を築いたら | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

以下の様な教えを聖書の真理だと教えられて来たと言う前回の

続きです。

 

3 イエス キリストに救われた人は、ユダヤ人がやるような

生き方=モーセの五書=十戒に書かれた事は無効?

シャバットや、神の記念日、コーシェル食を食べたりするのは、呪いの律法の教えの下に生き続ける事になる。

恵を無駄にした古い生き方だ。恵があるのに、なんでも感謝して

取り入れないなら、自由に生きれない。

その状態は、不自由に生きている証拠。<聖書に書かれた本当の

自由の意味を全く取り違えています。自由=神の真理=神の言葉で表される生き方の中に居る場合のみ本当の自由があると書いてあるのに。>真理=神の言葉=あなたを自由にする。

 

4 パリサイ派イコール律法主義者の代名詞である。

神の言葉=モーセの五書をユダヤ人と同じく生きる人を

律法主義者と呼ぶのだ。救い主を受け取らずに、神の前に義と

されるために躍起となっている人達である。

律法を厳格に守ることで、許しや義、神に認められようと

している。神の言葉=トラー古い教え=呪いで、恵の無い生き方を生きる人を律法主義と呼ぶ。クリスチャンでも、ある人達は、

全く同じく、聖書で定義する所の律法主義を生きて、

同じ事をしている可能性があると思います。

 

5 新しい時代は、異邦人には聖霊時代で、そんな呪いの律法はもう終わった。

呪いの下から贖い出され、なんでも許される時代になった。

聖書の70%、旧約とタイトルがつけられた部分は、

律法=呪いなのだ。そんな呪いの教えを生きない=呪いの律法は学ばなくて良い。

神の言葉では無く、霊に導かれて生きる恵の時代になった。

もっとグレード、レベルの高い、聖霊に導かれて生きる時代に

入った。救われた後も、レベル別の霊を受ける人と受けない人

がいる。

 

6 昇天後は呪いの律法主義的な安息日=第七日目のシャバットや祭りは完全に終わりになった。ユダヤ人だけやっていれば良いものだ。昇天を記念して日曜日に変更することに神?が決めた

のである。それって聖書のどこにも書いてない、誰もやっていない、それ嘘でしょう?の教え。

<ローマ皇帝が4世紀に、シャバットを廃止し、日曜日礼拝に

変更決めたことを知らないことによる誤解です。>

又は人の判断意見で記念日を決める ローマ 14:5

ある人は、ある日が他の日より大事であると考える。

ある人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、

確信を持っておるべきである。神の記念日を人間の意見、判断

で決めれば良いと教える。だから、ある人は現代、週の真ん中が安息日と決めてる人もいる。

 

聖書を誤解して解釈されて、その解説だけを聴き続けているので、それが聖書だと思い込んでいるのですが、聖書に戻り検証すると、変だと言うズレに必ず気が付く事ができます。

人の教え=聖書の最初の70%と最後の30%が違う教えと言う

教えを外すだけで、最初から最後まで一貫して聖書は同じ教えである事が見えて来ます。途中にある、紛らわしい誤訳や、挿入文や、不適切な翻訳や、そして人の教えで解説されている、

トラーは呪いだの、終わっただの、律法だの、恵と呪いの時代

その様な教えをとにかく、消して読んで行けば、パウロの

論点ははっきり見えて来ます。

パウロの論点下矢印

救い、贖い、義は人の行いでは獲得出来ない!

だから神が全てを用意してくださった。その目に見える形

人の生きる本物=トラー=イエシュアが地上でお手本を見せて

くださり、贖いの業を地上でも実際にされた。

割礼=改宗儀式をして義とされようと言う思考回路は

神のみ旨とズレている!義とされるために改宗儀式をするなら

しない方が良いと言う事。割礼=アブラハムの割礼が無意味

無効なんて一箇所でも話していない。使徒21:21

ユダヤ人も異邦人も、神の恵=業で新しい人=義とされている。

その両者の民族に何も隔てや基準の違いは無い!

パウロが言っている論点は簡単に言うとこれだと思います。

 

モーセの五書と、福音書以降では別の教え、新しい時代の新しい教えだと勘違いして伝えられている聖書の箇所を、元の意味、

原典言語の意味、当時の文化やしきたりの中での内容、当時の

ユダヤ人達の口頭トラーを元にして考える思考回路を知れば、

世間で流通している教えや解釈は、聖書=永遠の神の言葉とは

異なる事を100%聖書から立証証明する事が出来ます。

 

例えば、勘違いして解釈されている、トラーは終わり、

新しい教えになったと解説されるのは、このような聖書箇所。

これは、後で一つ一つ本当の意味を検証したいと思います。

 

マルコ7:14ー23、2:18-22 マタイ 5:17 

使徒10:10-16 ペテロが見た幻 レビ記11は終わりだと

勘違いしている

使徒21 エルサレム会議  

ローマ3:28 14:5

ガラテヤ 3章 律法は呪い

ヘブル8:13 律法は終わる

どの日でも今は安息日、自分で考えた日にするとか、

律法を生きないと汚れた生き方だとユダヤ人は信じていると

批判しますが、では、神の教えに外れた的外れ=罪な行為をしたら、人は実際に汚れないのでしょうか?体感するでしょう。

もしズレたことをしただけで。汚い言葉を言っただけで、自分が泥にまみれた感覚に陥るでしょう。それは自分のエッセンスに

反しているから、汚れてしまうのです。自分の姿が別物に変身するから。

貪欲、姦淫、盗み、妬み、そねみetc etcこれらは、トラーに

書かれた”ズレ”=罪の定義なのでしょう?この他にもたくさん

あります。

1つ1つ考えて、どの様に聖書を誤解、又は神学の教えで聖書に書かれた神の言葉の意味、真相を曲げているのか考えて行きたいと思います。

 

聖書に書かれていない”架空の教え”=人間作り出した神学や

伝統で支えられた発想、教えを土台に、考えめぐらしても

そこには神の真実、真理は存在しないのです。

聖書の中に全て、私たちが知るに必要な全てが書かれているのです。神が人に伝える神の言葉を捨てて無視するから、様々な

千差万別の人間の教えが編み出され続けて行くのです。

 

聖書に照らし合わせて考えて行くと、聖書と人の神学や解説は

違う事、矛盾している事、主張している内容自体が変だと言う

事に、必ず気が付いて行くはずです。

 

まず第一に聖書の中には、神の言葉と神の言葉が互いに敵対し

合う、矛盾し合う、否定し合う、ぶつかるような内容や箇所は、

実は聖書のどこの箇所にも書いて無いのです。神は分裂、

支離滅裂、不完全、一貫性の無いお方では無いのです。

 

人の編み出した神学や哲学が、神の言葉はテンポラリーとか、

聖書70%は異邦人には関係無い神の言葉とか、又は時代により変わる神の言葉、神の関わりと主張し、教えているだけと言う

のが真相、事実なのです。

神が一言”永遠に変わらない”言われたら、それはもうフィックスされていて変わらないと言う考えが頭に無い異邦人は、

聖書をどんな形でも曲げて現代に至っています。

神が神の言葉を変えたのでは無い、人間が変えたのです。

 

聖書に根拠の無い教えを土台にして、仮説を巡り語っているので、聖書とはずれた教えが出現し続けているのです。

 

異邦人の頭の中には、”神の言葉が永遠に変わらない”と言う

意識、コンセプトがまるで無いからなのです。これは本当にそう言えます。

 

だから、聖書に書いてある神の言葉=永遠に変わらない、

代々に渡りガードせよと書いてあっても、その神の言葉さえ

言われているその通りに読み取れない、理解せず、神の言葉を

受け取らないで拒否し続けている、否定し続けているのでしょう。不思議に思ったら見えてきます。

 

続く