永遠普遍の神の言葉より神学の教えを信じる場合に生まれる聖書に対する無数の誤解 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

使徒20:7で、聖餐式をしていた、安息日が第七日ではなく、

第一日目の日曜日礼拝に変更になった証拠の記事であると、

クリスチャンの世界では主張されていますが、同時にそれらの

解説、解釈こそが、聖書を誤解して読んでいる証拠でもあるのです。

 

聖書の世界、ヘブライの世界の情報に欠如している、

聖書に書かれている本当の意味や内容を把握していない。

神の言葉ではなくて、神学の教えを通して聖書を

歪めて読んでいる。

イエシュア、預言者、パウロや使徒が教えても編み出してもいない教え=ローマ・カトリックが4世紀以降編み出した教えを

聖書の教えだと勘違いしている。

分断神学=デイスペンセーション神学の教えや仮説が、

聖書の事実であると誤解している、信じているからです。

 

様々な教え、神学、情報が聖書の事実と混同、混線、混乱して

います。

聖書の事実通りに、再確認しないとならない事がたくさん

あるのです。

 

聖餐式と名付けられているローマ・カトリックの儀式は、

聖書の中では、春の神の祭り、過越の祭りの晩餐の中で

行われるものなのです。聖書を読めば分かります。

イエシュアが処刑される前の最後の晩餐です。過越の祭りの

晩餐の事なのです。ちゃんと聖書にイエシュアご自身の言葉が記されています。

 

クリスチャンは、イエシュアがされていた永遠の神の記念日=

過越の祭りを祝わないです。なぜだと思いますか?

ローマ帝国に死刑と言う処刑を持って、神の記念日を祝うこと、

トラーを生きることを禁じられ、迫害、脅されたからです。

だから生き延びるために、異邦人信者はローマ政府に迎合して

行ったと言うのが本当の理由なのです

 

それまでは、異邦人イエシュア信者も1世紀の使徒やユダヤ人信者同様に、シャバットを祝い、春と秋の神の祭り、過越や仮庵の祭りを行い、新月も祝い、コーシェル食を食べていたのです。

聖書の記録を見ても分かるでしょう。ユダヤ人も異邦人も同じ

トラーを生きていたのです。1コリント5:7−8

 

種無しパンと4杯のワインを飲む儀式。

イエシュアが”これはあなたがたのためのわたしの贖いの血”と

言われたものは、三杯目の”贖いの杯”を掲げて、種無しパンを食べる儀式をした時に言われた言葉なのです。

永遠に渡り、過越の祭りを祝うたびに、この儀式する時に

思い出してと、イエシュアが言われましたが、

その遺言もすっかり捨てられてしまっています。別の形に変形してしまった。

 

1コリント 11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、

パンをとり

11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

 11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

 11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

 

キドウーシュと言う、毎週のシャバットを迎える儀式では

2つの種ありパン<二日分のパン=マナを表す>を皆で裂いて

食べ、祝福の印であるワインを飲む儀式をするのです。

それは、”聖餐式”と言う名では呼ばれるものではないのです。

 

神の言葉は永遠普遍、神の記念日も永遠に代代に渡り祝われる

べきものと言う神の言葉を信じるのではなく、人間が創作した

神学=哲学=仮説の方を信じているからなのです。

 

イエシュア、そして、イエシュアの使徒パウロやペテロは、

ローマ教、ローマ・カトリック教と言う西洋宗教を編み出した

教祖、ご本尊様と思われていますが、それは100%聖書の

記述と真っ向から、相反する全くの誤解です。

パウロは生粋のヘブライ人。神殿でトラーを絶対にないがしろにしていない、割礼も禁じてないとナジル人の誓いをしたでしょう?ちゃんと聖書の事実だけを繋げて考えてください。

使徒21:21−24

 

クリスチャンが、福音書〜黙示録が、100%トラーである事、聖書=神の言葉のどの部分も、互いに相反する矛盾した記述など書いてない事に気が付く事が出来ないのは、人の作った教え=

神学を信じて、神の言葉=永遠に変わらないと言う言葉を退けているからです。又は、不適切な翻訳用語や、聖書に無い文章を

挿入されている、翻訳の書き方が紛らわしい、又は神学の教えを

聖書の中に盛り込んで書かれてしまっている、教える人が神学の解説から聖書を語るため、などたくさん理由はあります。

 

聖書に書いてある事の本当の意味、内容を知らないまま、

注解、コメンタリー、誰かの教えをベースにして、イエシュア

昇天後変えられた別の教え、別の契約、別の新しい神の言葉であると読み変えていることに気が付いてないだけなのです。

 

しかも、旧新訳聖書と言う、人が発想、創作したタイトルページまで、聖書の中に挿入されているのを見ると、最初の70%と

最後の30%は違うものと思ってしまっているのです。

 

古い=期限切れ、悪い、要らない 新しい=最新式、

バージョンアップ 古いものより優れていると思う。

 

このタイトルページが入れられてしまった経緯は、

時の異端者マルキオンと言う人の考えから来たものです。

聖書は、ルカの福音書と、パウロの書簡2、3読めば

事足りると教えた人です。古いものは要らないと。

聖書を知らない教師に習えば、生徒達、弟子達もそう考えてしまうのです。彼が異端者として当時排除されましたが、彼のこの

考え、旧約聖書、新約聖書と言う考えだけは、このタイトルページで残ってしまったと言うことなのです。

 

私は、以下の様な教えを聞いてきました。

それぞれの教師により、属しているグループにより

多少違いがあれど、世界的にこんな教えをしていると

思います。よく考えて行くと変だと分かります。

ユダヤ人と異邦人に対して神の教えが、別の教えであることからして変だと気がつけます。ひど過ぎるんじゃないの?と

普通なら考えつくはずですが。

 

 

1 救い主が地上に来られる2000年前までは、人には、

贖い、救いが無かった。聖霊も人の内側に住まわなかった。

もしくは、ある特別な人しか、神との交流、関わりがなかった。

一時的な仮の許しのために、生贄を神殿で捧げて、罪の許しを

得ていた。

 

2 ユダヤ人には、到底生きる事が出来ない厳しい律法を神から与えられて<なんてひどい神なの?>、人は呪いの下に生きていた。

その厳しい律法から、2000年以降、異邦人は、イエスキリストにより解放された。以前の律法は破棄された。

でも、ユダヤ人は継続して、呪いの律法を生きなければならない。<この時点でこの教えが変と分かる。どうして神は異邦人、ユダヤ人に別のアプローチをするわけ?異邦人に呪いの律法なら、同様にユダヤ人にも呪いの律法でしょう?

異邦人には無効の教え=律法。ユダヤ人には有効な教え=律法。

そんな人種別に分けた教えがあると言う幻想は、聖書をちゃんと

学んでいない、知らないからです。又は偏見と自分の読み込み。ちゃんと学べばそんな初歩的過ち、歪んだ理解はしない。なぜ?聖書にちゃんと書いてあるからです。気がつけないのは、不注意な学び、聖書の基本的情報、知識の欠如、又は読み込み、

違う読み方をしているからです。

 

だから異邦人で、以前の律法=モーセの五書に書かれている内容を、生きる人は、恵を捨てた生き方で、律法主義に戻る生き方で神の前に恵を台無しにするひどい生き方をしている。

ユダヤ人は引き続き、呪いの下にいて呪いの律法を生きる。

ユダヤ人は恵の生き方をしなくても良いと言うこと?

 

続く