クリスマスはクリスチャン達が祝う祭りで、ハヌカは、ユダヤ人のクリスマス?て思う人が居ると思います。時期もいつも12月の同じ日のあたりですし。いや、多くのクリスチャンはイエス
さまが祝われた”ハヌカを知らないし、ハヌカと言う名前は聞いても、その”記念日”の背景にある史実、そしてどうしてそれが
重大な事件だったのか、その教訓、なぜ、イエシュアが、又、昇天後の1世紀のイエシュア信者たち、ユダヤ人達がこの時期、
神殿でクリスマスではなくて、ハヌカを祝わっていたのかを
知らないと思います。
クリスマスは毎年25日でフィックスされており、ハヌカは、
毎年その周辺の日ですが、毎年違う日です。なぜでしょう?
ハヌカの日が毎年違うのは、神の祭りと同じ理由です。
神の暦で、第何の月の何日と言う、ユダヤ暦で行われているからです。グリゴリ歴では無いから、ユダヤ暦とグレゴリオ暦との
日が、ずれるのです。毎年、過越も、シャブオート<ペンテコステ=ギリシャ語>、仮庵の祭りも日が違うのは、現在グレゴリオ暦を使っているからずれるのです。フィックスで同じ日は、
シャバットの祝い、週の第七日目。これは、週の第何日目が、
シャバットであると、週の一番最後の日、創造の最後の終了日を記念して、神が指定しているからです。
神の創造が完了して止まった記念日。週一度の記念日。
ハヌカとクリスマスが、12月の同時期あたりなのと、聖書の
過越の祭りと、ローマ教を通して4世紀以降。聖書が閉じた
4世紀後に造られた祭り=イースターが同じ時期に当たるのも、
同じ理由からです。
イースターと言う祭りは、4世紀ローマ皇帝が決めて造られた
祭りだからなのです。4世紀まで無かった祭りです。聖書に無い。誰も経験していない。祝っていない、習慣に無い祝い日。
復活の事実は、聖書に記されているけれど、イースター祭りは
無い。イースターも聖書の言葉ではなく、異教の女神の名です。
これも春分の異教の神々の記念日、タムズや、イスタール、多産を願う祭りにも関係しています。だから卵=命。それを復活日と絡めたのです。
復活の日の曜日は、聖書に記されておらず、誰も知らないのです。何曜日に復活されたとしても、関係無いから書かれていないのです。
ローマ皇帝が、春分が来るすぐ後の最初の日曜日を、復活際に
するとその日に決めました。彼らの地場信仰=太陽神の記念日に全て因んだ日だからです。だから、いつも大事な日は、SUN=
太陽=太陽の日=太陽の神の記念日になっているのです。
サンデーは、ローマ皇帝を崇拝する日、そして異教の神の日でもあるのです。
聖書に登場する人達は、”イースター”と言う言葉も知らないし、イースター祭りも知らないのです。先にみ国に移動した人達に、
いつか天国で聞いてみたら分かる〜の世界。パウロも、トラーの
に書かれている、レビ記23章の神の祭りではなくて、
イースターを祝って居たと思いませんか?でもパウロはWWYDをしていたと言うのが正解です。
コリント1 5:7-8
「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、
パン種の入っていない、純粋で真実のパン=マッツア=<要らないものが削がれた新しい人にされた実態で>で祭りを祝おう。」
新しい人の実態で、過越の祭りをし、種無しパンの週を祝おうと
パウロが言っています。彼ら1世紀の信者は変わらずに神の祭りレビ記23章を祝って居た事実がちゃんと書いてある、それが
パウロの教え=トラーの教えを異邦人にしている証拠が書かれているのです。
彼ら1世紀のイエシュア信者達が祝っていたのは、”過越の祭り” その中に復活の命の事実を記念する日は、始めから入っているからです。初穂を捧げる。復活の命を祝い祝福する。
レビ記23章、永遠に祝われる神の祭りの全部を通して、福音の全て、イエシュアの全てを表している、網羅しているからです。何も欠けが無い、後で付け足す何も無い=6日の間で全ての業を完了したと書いてある通り。
イースターの日の設定も、春分=太陽に関する記念日が来る後の
最初の日曜日とフィックスしているからです。
丁度、過越の祭りは、この時期に重なるので、時々、過越と
イースターの日が重なる時があるのはその理由からです。
クリスチャンはイースターを祝い、ユダヤ人は過越を祝う?
イエシュアの最後の1週間を考える。イエシュアがされていたのは、過越の祭りの準備と過越の祝いの晩餐。
イエシュア=屠られる子羊として現れたのは過越し。屠られた
のも過越、復活されたのもその時。そして、初穂を捧げる=種無しパン=新しくされた人の事実、復活の命を祝う週に復活された。
ハヌカは、ユダヤ暦”キスレブ”の月の第25日、その日だけで
なく、ずっとギリシャ帝国による、ユダヤ人への弾圧、トラーを捨てて彼らの神々、ギリシャ神を拝むよう、ずっとユダヤ人を
弾圧していたのです。以前はローマでしたが、この交互の繰り返し、異教の神々の教えに、同化せよ!混じり合え!
イスラエルに敵対する国、ギリシャ、ローマもそうですが、
エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、メデイア。
全部異教の神々の国。その大元はエジプト=太陽神、ラー。
これとの戦いです。その裏にあるのは、サタン。10の災いの
最後の災い。異教の神=サタンへの裁き。その大元=エジプトの神=ラー=太陽神=サタンに、どの宗教も繋がっているのです。形や教えは様々に変形せよ。
そして、多くのユダヤ人が弾圧に耐えかねて、ヘレニズム化=
異教の神々の教えに混ざって、同化して行ったのです。トラーを捨てた。異教の神々の習わし、生き方に同化して行った。生活全てに置いて。生活の中の全て、食べる事、生きる事、全ての点に於いて、神の言葉、インストラクションを無視し、汚して、捨てて行ったのです。
聖書翻訳の中にもヘレニズム化が浸透しました。
ヘレニズム。ヘブライ、トラーの考え方とは全く違う、
人間思想哲学です。体は悪いもの。魂、霊、体と言う、バラバラなコンセプトはギリシャ思想から、聖書翻訳にまで入り込みました。
その様なコンセプトは、ギリシャ帝国に支配されてしまう、
400BC以前には無いコンセプトでした。
ヘブライの世界は、1つ。エハッド。一つ以上で全く一つ。
人を霊、魂、心、体と分けている言葉ではなく、全部ひっくるめて、”ネフィッシュ”=生きるものと言う言葉で書かれています。
ダビデが”我が魂よ、主を誉めよ”と言った翻訳ですが、
魂と書かれている言葉も、実は、”全存在”=ネフィッシュ=生きるもの=自分丸ごとの存在と言うヘブライ語の言葉で書かれています。
申命記10:12-13を引用してイエシュア が言われた、”こころを尽くし、思いを尽くし主なる神を愛せよ”あれは、全存在=
ネフィッシュ全てを駆使して、とヘブライ語では、書かれているのです。あなたと言う全存在で主を愛する=愛する=契約の
命の姿を生きると言う意味なのです。ペテロに言われた、
”あなたは私を愛するか?”それも同じ=契約の命の言葉の
実態を生きる意思はあるのか?神の言葉とぶれてないか?と
言う問いです。
これは、別の話なので、書いていると次に進めないので
ヘレニズム思想の、聖書、神の言葉への影響と言うものは
一旦横に置いて起きます。
”ハヌカ”=再奉納の祭りは、エルサレムの神殿がギリシャ政府に乗っ取られて、ギリシャの異教の神々の祭りを、聖なるイスラエルの神の家の中で、汚れた儀式、祭りをされてしまった日に因んでいるからです。
続く