冬至の時期 クリスチャンはクリスマスでユダヤ人はハヌカ?イエシュアが祝ったハヌカにまつわる事実 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の最初の70%の最後の書であるマラキ書から、福音書が書かれる1世紀前の間に起きた”マカバイ”戦争。

マラキからイエシュア誕生までの間、約400年、聖書の中に記録が書かれていない時代があります。

 

預言書マラキ=420BC、1世紀にイエシュアが地上に来られた。

第二神殿時代は、520BCから70AD。

第二神殿は、イエシュア 昇天後も神殿としてフル機能していました。

だから、使徒たち、1世紀ユダヤ人イエシュア信者達、極少数の

異邦人イエシュア信者達も、この神殿でコバーンを捧げ、

シャバットを祝い、春と秋の都上りの祭りをしていた事実が

はっきり聖書に記されています。

 

しかも、イエシュアはレビ記23章の都上りの祭り=シャヴオートまで、エルサレムに留まり春の最後の締めくくりの祭りを待ちなさいと言われましたね。終わりの祭り、呪い、廃れた教えの

祭りをなぜする様にイエシュア は命じたの?て疑問が湧くはずです。

そして、恵を捨てる人は、神殿に詣出て、トラーを生きると

西洋神学は教えますが、聖書の事実と真逆で、真実とは異なります。福音書以降に書かれている、ユダヤ人、異邦人、同時に

諸外国に居るイエシュア 信者達は、皆100%トラーを生きた。

神殿にも詣で、祭りを祝い、神殿でコバーンまで捧げていたのです。しかも、パウロなんて大金はたいて、他の人の分まで支払い、”ナジル人”の誓いを神殿でしたのです。1日の出来事ではない。30日の間ですよ?しかも、パウロがナジル人の誓いを立てた理由は何?”私は100%トラーに忠実に生きています”と言う証明をするため、イエシュア を信じた後、トラーを捨てていると言う噂を払拭するためでした。使徒21:21-24

全部辻褄合わない記録になってしまうでしょう。

トラーが終わりなら。

 

聖書だけを読めば、伝統の解説ってなんか変じゃない?とぜひ

自分で読んで、自分で考えて見て欲しいのです。彼らは、恵を

捨てた生き方をした、ひどい生き方をした代表者なわけ?本当に変?と考え始めたら見えて来ます。聖書だけを根拠にして。

 

ずれている、辻褄合わないその理由は、人間が勝手にトラー=

神の永遠の言葉=父の言葉=婚姻契約=始めの愛を、呪い、古い、廃れた、終わり、恵無しと言う教えで、捨てる様に教えた、その教えの方が変であり、聖書が変なのではないと言う事実があるからです。

灯台に向かって、船が、灯台は指示が間違っているから、

変更せよ!と命令する様なもの。

灯台は、船に向かって、正しい安全な方向=神の言葉に戻る様

方向転換を促しているのです。どっちが神?何が神の言葉?

考えたら良いのです。人の意見?それとも神が私達が迷わないための証拠として残してくれた、文字で記されている永遠普遍の

神の言葉?誠実、恵、許し、愛を永遠に変わらず与えて下さる

神と言うのが、神が紹介してる神の本当の性質ではないのでしょうか?途中でコロコロ変わる、約束、契約変える神と思うのは、育ち、教育の元が異教徒思想、異教徒の思考回路だと言う良い

証拠なのです。又はユダヤ人でもヘレニズム化した哲学、

神学の影響を受けたと言う事。

 

現代の様な西洋の祭り、教えは4世紀まで存在していない。

そして、19世紀になるまで、アメリカでも今の様な祭りを

祝う事がなかったのです。いやクリスチャン達により、クリスマスを祝う事を、州の法律で禁じられていた歴史的事実があるのです。なぜクリスチャンリーダー達は禁じたのか?それは全て

”異教の神々”にまつわる祭りごとを変形した形の祭りだと皆が

知っていたからです。クリスチャンが現代ハロウイーンを反対するのと同じです。どんな理由をからめようとも、元が異教の神の

要素=祭りだから、関わるべからずと考えたのでしょう。

ハヌカも、クリスマスも同じ時期。これは偶然ではなく、

その理由は、”異教の神々の祭り”に関わる、まつわる時期と

からんでいると言う共通点があるからなのです。

 

ダニエル書の中には、イスラエルと関わる”異教の国”ギリシャの

事が預言されています。その事件が起きたのが、聖書が書かれていない、ギャップ イヤー、マラキから1世紀、救い主が生まれるまでの間に起きました。

聖書に記されていませんが、タルムードに記されています。

でもその記録も、マカバイ戦争が起きたずっとずっと後に書かれたものです。しかもセカンドハンドの情報です。

記者の誰も経験していない事件。

当時、マカバイ戦争に関わった人達が、直の情報を書いているのが”マカバイ記”です。これは、聖書として含まれる事を考えられていない外典ですが、その事件に関わった当事者達の、当時の

記録、日記、ダイアリーの様なものです。記録書です。

 

そして、ギリシャ帝国に関しても、ダニエル書に預言されている事が、ことごとく起きました。でもこのマカバイ戦争の背景と

内容を知らずして、ダニエル書に書かれている預言内容は

理解出来ない様になっています。様々な”情報”に欠如、欠落したまま、預言の内容を憶測で想像してしまうからです。

 

荒らす者とは何でしょう。預言書、聖書の警告が分かれば、

見えてきます。マカバイ戦争の勝利を祝う、ハヌカ=再び

神殿を奉献”した記念日を祝うその内容と繋がっています。

神の警告は一貫しています。始めから同じです。

 

命の木からだけ食べよ。知識の木からは食べてはならない。

”混ぜ物の教え”異教の神々の教え=神の言葉=婚姻契約=トラーに書かれた、人の姿、神の与えた命のデザインの生き方を

捨てる事。別の教えを内側に取り入れて、それを生きる事への

警告です。神のトラーを荒らす者。神のトラーと神の記念日を

変えたと書かれている通りです。ダニエル7:25

 

考えても分かります。今の世の中、ノアの時代、ソドムとゴモラの様に、それほどまでには達してはいないけれど、根、エッセンスはあらゆるところに浮遊しています。神のデザインを捨てる

生き方を世界が許容。神の言葉などドブの中。神の目には汚れ、悪などと言おうものなら封じ込められてしまいます。信じる者の世界でも、なんでも許容が神の語る契約の愛=トラーに書かれた

神の語る愛の姿と勘違いしているからです。トラーを読まない

弊害です。みことばを聞けない飢饉。それは愛でも寛容でも親切でもなんでもない。周りの人が汚染されて死にます。

 

それぞれがそれぞれに、好ましい生き方をする世界。神の言葉

など言うと、永久追放されて追いやられる。以前の世の中ここ

まででは無かったです。もっとまともだった。人間として当たり前でしょうと言う意識が普通にあった。今はなんでもかんでもあり。

細かい事が見えなくても、柱は見えます。神の私達への警告。

 

1 神の言葉を捨てる事。異教の神々の教え、生き方、要素への迎合、同化する、異物を混ぜる事への警告。

これが預言者、預言書の全てです。トラー=神の契約の命を生きる事を捨てることへの重大警告。これはどの時代でも全く同じです。別の物差しを神は人類に与えてなどいないから。別の物差しが登場したというのは、まやかし、幻の世界です。

 

時代により違うと言うのは、人の主張。人間の肉の目=異邦人の

都合の良い理由づけです。今までの自分の文化の中での生き方と異なるから、違和感あるからです。大衆受けしない、馴染めない

だから、神の言葉を4世紀にローマ皇帝が変えたのでしょう。

みんなに受け入れられる、土着の宗教の教えと重ねて、地場宗教=太陽神の教えに色々様々に衣替え、塗り替えてアレンジ。

 

西洋神学は、聖書と真逆の事を語りますが、聖書だけに戻れば

イエシュアの警告も同じ事です。

使徒15章にも繋がる、”神に属さないもの、汚れを取り込む”

事への警告なのです。

取り込めば、別物に変身してしまうからです。これを、姦淫の

罪と言う言葉で表現しているのです。

 

夫とは違うものを、家=神の家=自分の中に取り込む事。頭脳にも肉体にも。

絶対ご法度!と言う警告=預言書です。厳しいですか?肉の目から見るからです。愛ある親はなんとしても子を守る。

いやここまで言わないと分からないほど、人がずれて鈍くなった記録がソドムとゴモラ、ノアの時代の人々の消滅の記録でしょう。危ない!危険!と言う事。守られるための警告。

 

イエシュアも、”宮きよめ”の祭りにエルサレムに居て神殿で

祝っていた記録が書かれています。突如書かれているので、

この祭りって何?ですが、これは使徒15章にも繋がる事なのです。そして、天の祭司、神の定めた食べ物。

聖別=きよい、きよく無いと言う神の定義にも繋がるものです。

 

ヨハネ10:22  そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。

10:23 イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。

 

続く